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散るぞ悲しき

この週末に読んだ本:

『散るぞ悲しき―硫黄島総指揮官・栗林忠道』(新潮文庫)梯 久美子

硫黄島 栗林中将の最期』 (文春新書)梯 久美子

『総員玉砕せよ!』 (講談社文庫)水木 しげる

『敗走記』(講談社文庫)水木 しげる

『十七歳の硫黄島』 (文春新書)秋草 鶴次

硫黄島を生き延びて』秋草 鶴次

『写真集 硫黄島

今読んでいる本:

硫黄島 魂の記録 名をこそ惜しめ』 (文春文庫)津本 陽

『散るぞ悲しき』は去年『狂うひと』を読んだ後くらいに古本屋で買って、そのままになっていた。土曜日の朝にふと手に取って読みはじめたら止まらなくなって一気に読む。

それから『硫黄島 栗林中将の最期』が近くの図書館にあるのをチェックして借りに行く。それを読んだ後、ずっと前に買って読んだ水木しげるの『総員玉砕せよ!』と『敗走記』を読み返す。

さらに図書館で硫黄島関連の本を4冊借りる。以前録画した映画硫黄島からの手紙』(クリント・イーストウッド監督)を見返し、アマゾンプライムで『父親たちの星条旗』も見る。

というわけで週末は硫黄島漬けで過ごした。

日本軍は、20,933名(陸軍13,586名 海軍 7,347名)のうち20,129名(軍属82名を含む)が戦死。アメリカ軍は戦死6,821名、戦傷21,865名。硫黄島の戦いは、太平洋戦争後期の島嶼防衛戦において、アメリカ軍地上部隊の損害が日本軍の損害を上回った稀有な戦闘であったと同時に、アメリカが第二次世界大戦で最も人的損害を被った戦闘の一つとなった。

この三十六日間の「硫黄島の戦い」はアメリカにおいても強く記憶されており、硫黄島の擂鉢山に六人の兵士が星条旗を掲げる写真は、第二次大戦の最も有名な写真の一つとなった。 この戦いは一つの小島を巡る白兵戦を交えた文字通りの激突であり、勝者であるアメリカの兵士たちにとっても悪夢であったが、日本の兵士たちにとってははるかにそれ以上のものであった。

1944年6月8日に栗林中将が着任してから、1945年2月19日の米軍上陸開始、そして『十七歳の硫黄島』の著者・秋草鶴次氏が地下壕の中で意識不明状態で米兵の軍用犬に発見される1945年6月1日までの一年間、硫黄島はこの世に現出した地獄の一つと化した。灼熱、空腹、乾き、爆撃に伴う轟音、眼玉が飛び出し内臓がひっくり返るほどの振動、そうした環境での硫黄臭の空気の中での地下壕堀の重労働、そして最終的には自らの掘った地下壕の中で屍臭と糞尿に塗れながらの火炎放射器での集団焼死。まさに地獄としか表現しようのない世界がそこにはあった。

栗林中将は、少しでも陥落を長引かせ、敵にダメージを与えるため、バンザイ突撃を禁止し、地下壕のゲリラ方式による徹底抗戦を図り、5日間で征服予定だった期間を36日まで延ばし、敵軍にも甚大な人的被害を与えた。

結局のところ、栗林中将の作戦は、必敗の勝負に決着がつくまでの絶望的な苦しみを長引かせるにすぎなかったのかもしれない。 しかし、少なくとも2万の兵士の規律は最後まで保たれた。慰安所もなく風紀の乱れもなく(その余裕もなかった)自暴自棄なバンザイ突撃による安易で無責任な死に逃避する兵士たちもいなかった。

隣島である父島で起こった凄惨な捕虜人肉事件と較べてみれば、その違いは一層明瞭になる。そこでは、食料が不足していたわけでもないのに、上官の享楽のために、殺害した捕虜の肉や臓器を宴会で食べるという悍ましい行為が行われていたのである(梯久美子の記事にその詳細が記されている)。

梯久美子による、美智子皇后硫黄島慰霊訪問記は感動的である。 栗林の有名な辞世の句

国の為重きつとめを果し得で矢弾尽き果て散るぞ悲しき

は当時、大本営が〈悲しき〉を〈口惜しき〉と改変して公表された。 これに対し平成6年の硫黄島訪問時の天皇陛下の御製は、

精根を込め戦ひし人未だ地下に眠りて島は悲しき

そして皇后陛下の御歌は、

ネムの木木茂りゐるこの島に五十年眠るみ魂かなしき

この二句の〈悲しき〉は決して偶然ではあり得ない、と梯は言う。

この御製と御歌は「四十九年の時をへだてた、栗林への返歌」なのだと。

大本営によって捻じ曲げられた栗林の本意に報いたのであると。

そして犠牲となった兵士たちの目線に立つ天皇皇后両陛下の姿は、慰霊として理想的なものであったと。

硫黄島の戦いを生き延びた秋草鶴次(当時十七歳)によれば、負傷した少年兵士が死ぬときに発した言葉は、〈天皇陛下〉ではなく〈おっかさん〉であった。

島に送られた兵士の中には、三十代四十代で妻子を持ち家族の生計を支える壮年者たちも多かった。教習所でバットで下半身を殴打され尾てい骨を折られるか島に行くかの選択に迷って志願した人もいた。

栗林が貫き成功したと言える頑強で徹底した組織的抵抗の姿勢は、結局は連合軍に日本上陸による地上戦を躊躇わせ、原子爆弾の投下を正当化する理由として使われることになった。

秋草鶴次の『硫黄島を生き延びて』には、日独伊の捕虜たちに対するアメリカの処遇と捕虜たちの生活がたぶんありのままに記されている。