INSTANT KARMA

We All Shine On

痩せた雄鶏

今日読んだ尾崎一雄の『痩せた雄鶏』という小説が京都大学の入試に使われたらしい。

五十になった作家に、妻と三人の子供がいて、自らは病弱で始終床に臥せっている。病気になり、どう考えてもあまり長い命ではない、という事実にぶち当たったとき、彼は初めて生死の問題というのが他人事ではなくなった。

彼が以前のようにすぐに癇癪を起こしたりせず、家族との交わりがやわらかなものになったのは、自分の中に誰にものぞかせない小さな部屋のようなものをつくり、そこに素知らぬ顔でもぐりこむ術を身に着けたせいである。

だから緒方は、何気ない顔で、彼らとの付き合いを続けている。顔を突き合わせ、話のやり取りもそつがないのに、頭はまるで相手とかかわりない思考にとらわれている自分を、緒方は、残酷な、冷たい奴と思う。しかし、自分のいのちについて、自分が考えずに、いったい誰が考えてくれるだろう。これは、病気を看護し、献身的努力で自分の生命を救ってくれ、あるいは生き延びさせてくれる、というようなこととは、(それは、感謝すべきことであり、好ましいことでもあるが、しかし)全く別の話なのだ、−−そう思う。緒方は、いのち、あるいは生というものについて、納得したいのだ、ただそれだけの、至極簡単なことなのだ。そしてそれは、自分で納得するより外、仕方がない。そのこととは、ただ一人でしか向き合うことができず、その作業はただ一人でしか出来ない。

・・・俺も、いや俺は、癇癪を起さず、じっと持ちこたえて行こう。堪え、忍び、時が早かろうと遅かろうと、そこまで静かに持ちこたえてゆく、−−それが俺のやるべきことらしい、などと緒方は考え続けた。

だからといって、彼は東洋流の、無常観、諦観の上にあぐらをかいているのではない。もしそうなら、彼は文章など一行も書きはしないだろう。書く必要がないだろう。彼には、未だ野心と色気が残っている。

尾崎一雄はなんだかんだで八十三まで生きた。彼は最後まで野心と色気を捨てない作家だったと思う。