「東京タワー―オカンとボクと、時々、オトン」を読んでの感想の続き。
感想というよりはメモ、個人的な備忘録のようなもの。
オカンが亡くなった後、ボクはそれまで訊ねることもなく、オカンも決して口にすることのなかった話をオトンから聞くことになる。
「どうして、別居することになったん?」
「ああ・・・」
「女なん?」
「いや違う・・・。ばあちゃんなんや・・・」
「小倉のばあちゃん・・・?」
「ばあさんとオカンが合わんやった。いっつもばあさんが文句を言いよった。たまらんごとなったお母さんが小倉の家やのうで、お父さんとお母さんとオマエと三人で住めんのやろうかって言い出したんよ。お父さんもまだ若いでから気が短かったもんやけんのお。そんなん言うなら、オマエが出て行けって言うてしもうたんや・・・」
ボクは、子どもの頃、小倉のばあちゃんの家で、会うたびに何度も同じことを聞かれたのを覚えている。
「一番好きなのは誰ね?」
ボクは毎回、同じことを答えた。
「ママ」
「その次に好きな人は誰ね?」
「小倉のおばあちゃん」
そうね、そうねとばあちゃんは言う。何番目まで聞かれてもオトンの名前は言わなかった。それは別にオトンが嫌いだったというわけではなく、なんとなく、この場ではオトンの名前を出さない方がいいのだろうなと、子供心に思っていたからだ。
ある夏の昼間、ばあちゃんの他に、もうひとり誰かがいるとき、ばあちゃんはまた同じ質問をした。
「一番好きな人は誰ね?」
「ママ」
しばらくして、ばあちゃんは、もうひとりの誰かと小声でなにか話をしていた。そして、ボクを横目で見ながら、憐れんだような声でこう言った。
「生みの親より、育ての親って、言うけんねえ・・・」
それが聞こえた時、その時はどういう意味なのか、わからなかったけれど、なにか嫌なことを言われているな、ということは、すぐにわかった。
高校受験の時、必要書類の中にボクの興味を強く引き付ける文字があった。
「戸籍謄本」
そこに書かれていたことは、どう判断すればいいのか分からず、もう、その後からは気にすることも少なくなった。
たとえ、オカンがボクの生みの親ではなく、どこかに本当のお母さんと言われる生母がいたとしても、ボクにとっての母親はオカンひとりなのだから。
オカンが死んだとき、”オカンが死んだら開けてください”と書かれた粗末な紙箱の中に、ぽち袋のような小さな袋があった。
「御玉緒 小倉記念病院 中川ベビー殿 昭和三十八年十一月四日御誕生」
と書かれ、その中には粉末の分包のように折り畳んだ紙が入っていて、開けてみるとそこにはかさかさになった”へその緒”が入っていた。
オカンは、ボクが中学とか高校を卒業する節目で何回か、離婚していいかとボクに訊ねた。ボクは、そのたびにいいよって言ったのに、オカンは結局、死ぬまでオトンが判をついた離婚届を出さなかった。
ボクは、「オトンによく似ている」と言われるのが嫌だった。オトンの知り合いの水商売の人は、とにかくオトンとボクがそっくりということにしたがるようだった。
でも、赤ん坊の著者を抱いたオカンの写真を見ると、リリー・フランキーは、オカンによく似ていると思う。特に目元がそっくり。