INSTANT KARMA

We All Shine On

関直美年譜(暫定版)

1962年(昭和37年)0歳

7月7日 青森市で誕生。父・英市、母・節の長女。実家は「関ガラス店」を経営。

ひらひらの服とか着てたんですよ。しかも髪の毛が長かった。それで毎朝、お母さんとおばあちゃんがあたしの髪を三つ編みに結うの。で、「今日はどのリボンにしましょう」って、ほとんどお嬢様状態(笑)。まあ初めての子だったから、親も力入ったんでしょうね

後に2歳下の妹、7歳下の弟が生まれる。父は青森商業高校ボクシング部OBで、ボクシングのレパード玉熊の後援会長をしていた。

1965年(昭和40年)3歳

聖マリア幼稚園に通常より1年早く入園。特別四年保育を受ける。

幼稚園のとき読んだ少女マンガで覚えてるのがある。病室のベッドで女の子が友達に、「ああ、ゆううつだわ。生理なの」って言うの。私、その漢字が読めなくて、普段は母親に聞くのに、なんか本能的にこれは聞いちゃいけないって思ったんだよ。でもいつかわかる日が来ると漠然と感じてて、字を、字面というか絵として覚えてた。わかったときはもう、ヒザを打ったね(笑)。幼稚園からの積年のさ(笑)

1967年(昭和42年)5歳

祖父「アカシアの雨がやむとき」を聞きながら天寿を全うする。

家族旅行の旅先で映画「ドリフターズですよ! 前進前進また前進」を見る

1969年(昭和44年)7歳

青森市立堤小学校入学。小学校には棟方志功記念館が隣接していた。

私が上京後の大学生時代に、有り余るヒマをつぶすため手近にあった消しゴムではんこを作ったこととそれは関係ないのですが、あまりにも「何故、こんなものを作るようになったのか」と質問されるので、「私の出身小学校の隣には棟方志功館があり、図工は版画ばかりをやらされていた」と答えるようになったのです。嘘なんだけど嘘でもないし

1970年(昭和45年)8歳

自宅改装のため一時転居。

幼稚園から小学二年生くらいのとき、「もう世界中のシールが欲しいという野望を持っていた」が、膨大なシールを引っ越しで紛失。

それ以後は何も集めていない。何かを犠牲にしなきゃ、コレクターとは呼べないと思う

「ケンちゃんシリーズ」を見て感動し、泣くのを見られたくなくてそっと土間に出る。

1972年(昭和47年)10歳

10月、東奥児童美術展に図画の部で入選。

1973年(昭和48年)11歳

11月、RABこども音楽コンクール青森地区大会に出場、「星の世界」を独唱する。

郷ひろみに夢中になる。部屋の天井に懸賞で当たった郷ひろみの1メートル×80センチのポスターが貼ってあり、「上半身裸のバストショットで、横に『キミに話したいことがあるんだ』と書いてあった」。

1974年(昭和49年)12歳

修学旅行で北海道に行く。

1975年(昭和50年)13歳

小学校卒業の寄せ書きに「イラスト・レーターになってきれいな絵を書きたい」と記す。

青森市立浦町中学校入学。祖母が死去。

1977年(昭和52年)15歳

英語検定3級合格。

1978年(昭和53年)16歳

私立青森明の星高校入学。進学組に入る。同級生や先生にあだ名をつけたり、クラスの雰囲気を明るくする存在だった。

サブカルチャー〉にハマる。ムーンライダーズYMOが好きで、体育の創作ダンスの音楽を「千のナイフ」にするよう主張。さだまさしを憎む。

あたし、高校生の時はだいたい行動パターンが決まってて、学校が終わると友達とまず本屋に行く。そこに二時間くらいいて、それから近くの電気屋の店頭で自転車のサドルに腰掛けながらYMOのライブのビデオを見て、最後にレコード屋に行くんだけど、おカネがないから何も買わない(笑)

1979年(昭和54年)17歳

初めて消しゴムで作品を彫る。ゴダイゴとツイストのロゴマーク。そのうち昭和天皇ジャイアント馬場を作るようになる。クラスメートと「芸能新聞」をつくり、「所ジョージオールナイトニッポン」に投稿。

昨今、テレビではいろんな番組を制作しているようだが、無防備に私たちの生活になだれこんでくるそれを、道徳的観念をもって制御するには批判能力が必要だ。当局の設置した臨時低俗番組徹底追放協議会及び運動本部が、この状況を打開せんとすべく運動部員の鋭い感性を結集し、今ここにバビーンと送る現代人のバイブルです。毎朝読んで肝に銘じてください(クラスの芸能新聞に書いた原稿より)

1981年(昭和56年)19歳

1月1日に始まった「ビートたけしオールナイトニッポン」のヘビーリスナーになる。

高校までの田舎にいたときは、こういう人間ではなかったんです。当時の私のままだったら、「ビューティフルライフ」を見て泣いたかもしれない(笑)。そうはならない自我の目覚めというか、角度を変えるプリズムとして一番に挙げられるのが『ビートたけしオールナイトニッポン」。二番手は見つからないですね

関とは高校三年間でいろんなことに夢中になりましたけど、関のビートたけしのオールナイトへの熱狂ぶりは、宗教というか神を崇拝する気持ちに近いものがありましたね。番組が放送されてから三日間は、関が学校の休み時間の間ずっと番組の内容を一方的に喋りまくるんです。私はもっぱら聞き役で、言葉をはさむ余地がないくらいの勢いでした。関は自分で話しながら自分で笑い出すことも少なくありませんでした。学校が終わると自転車で一緒に帰るんですけど、こぎながらも番組の話は止まりませんでしたね。気が済むまで喋ると、ダメ押しみたいに私に番組のテープを渡しました。これを聞いてもう一回笑え、ってことだったんでしょうね

(同級生・対馬美佐子の証言)

高校卒業し上京。石神井公園にある女性限定賄付き下宿から高田馬場早稲田予備校に通う。

浪人の時に東京に出てきたんですよ。でも、池袋の西武デパートを見て、でっけェな~ってハマっちゃってデパートばかり通ってた(笑)。で、十三時ホールで有名な早稲田予備校に行ったんですけど、最後まであの十三の意味はわかんなかった

1982年(昭和57年)20歳

法政大学第二文学部日本文学科入学。西巣鴨のアパートに引っ越す。

一部に転部するつもりで入ったんですけど、とてもできたもんじゃない。…テレビはただただ見てました。家にいるときは必ず

11月、「広告批評」のマドラ出版がやっていたコピーライター養成講座「広告学校」に入学。

これも別に憧れていた、ってことはなくて、私が東京に出てきたときはもうコピーライター・ブームのピークじゃないですか。…仲畑さんのファンでしたね。糸井さんはどうもよくわからなかった。「ちょっとこれでいいのか」って、いつも思ってた。

1983年(昭和58年)21歳

青森の商業高校を卒業した妹(真理)が調理師専門学校に入るために上京し、同居する。

1984年(昭和59年)22歳

法政大学中退。赤塚新町のマンションに引っ越す。

1985年(昭和60年)23歳

1月、広告学校の友人だった白木理恵(のち榎戸理恵)から紹介されてえのきどいちろうに会う。花登筐の〈丁稚もの小説〉を読んで作った丁稚のはんこを見せる。

ライター事務所「シュワッチ」(社長イタバシマサヒロ)に籍を置き、「ホットドッグ・プレス」で仕事を始める。当時「ホットドッグ・プレス」の編集者だったいとうせいこうから「ナンシー関」という名前をつけられる。

ナンシー関〉として同誌で消しゴム版画デビュー。「ナンシーの漢字一発」で原稿デビュー。

ビックリハウス」に売り込みに行く。編集長だった高橋章子とはソリが合わなかったが、8月号から丁稚ものパロディ「通天閣はもう唄わない」を連載。11月号で休刊のため途切れる。

1986年(昭和61年)24歳

ミュージック・マガジン」連載コラム「音楽あかさたな」でイラストを担当し、初めて〈消しゴム版画家〉を名乗る。

1987年(昭和62年)25歳

スタジオ・ボイス」3月号から「テレビの泉」連載開始。局アナの楽しみ方や「歌丸の法則」などを披露する。

我々はすべての番組を楽しめる! クズなプログラムを24時間流されても楽しんでみせよう! 我々はテレビ鑑賞に革命を起こす黒船団なのだ!(初回連載タイトルの下の前文より)

1988年(昭和63年)26歳

ミュージック・マガジン」の表紙イラストを担当(~90年12月号)。

月刊カドカワ」6月号から「テレビ目抜き通り」連載開始。「テレビの泉」の路線をさらに推し進める。

3月、香港・広州経由で上海旅行。パーマに失敗。

5月、青山246クラブにて初個展「けしごむ歳時記」開催。

BGコピーバンド「シュワッチャーズ」結成。ベースとサイドコーラスを担当。

1989年(平成元年)27歳

「シュワッチ」から独立、フリーとなる。一部マネージメントをいとうせいこうも属していたエムパイヤ・スネーク・ビルディングが行う。

4月、友人(白木理恵)を訪ねてニューヨークへ一人旅。

6.24 「いかすバンド天国」ゲスト審査員としてテレビ初出演

7月、シュワッチの社員旅行で3泊4日台湾旅行。

月刊プレイボーイ」内藤陳の読まずに死ねるか、イラスト担当。

この年、計13本連載を抱える。

1990年(平成2年)28歳

噂の真相」5月号から「ナンシー関のチャンネルオフ」連載開始(のちに「迷宮の花園」、「顔面至上主義」にタイトル変更)

1991年(平成3年)29歳

5.31 「タモリ倶楽部」楽しい消しゴム版画教室に出演

7月、初の単行本ナンシー関の顔面手帖」シンコーミュージック)書下ろし。

バッカス」7月号から「反核の人」(押切伸一との対談)開始。シリアスな時事問題をいかに核心をはずして語り合うかがテーマ。

紙のプロレス」10月号から「ナンシー関の消しゴム爆破デスマッチ」連載開始

11.11 NHK「婦人百科」に消しゴム版画の年賀状講師として出演

1992年(平成4年)30歳

8月、三軒茶屋に転居。

12月、「何様のつもり」世界文化社)発表済みコラムを集めたもの。「何~」シリーズの最初の本。文庫化は角川が権利を手に入れ、総計100万分以上を売り上げる。

1993年(平成5年)31歳

1月、「週刊朝日」(1月8日号)で「小耳にはさもう」連載開始。

1月、「週刊アサヒ芸能」(1月21日号)で「浅草キッド週刊アサヒ芸能人」イラスト担当開始。

2.3 毎日新聞に書いた「母子像の自己陶酔はイヤらしい」という文章に抗議が殺到。

4月、高田文夫著「寄せ鍋人物図鑑」(講談社)に版画。

5.10 NHK「ナイトジャーナル」出演

10月、「週刊文春」(10月21日号)でナンシー関のテレビ消灯時間」連載開始。

12月、「何をいまさら」(世界文化社

1994年(平成6年)32歳

4月、デーブ・スペクターと週刊誌上で論争。

CREA」5月号で松本人志と対談。お笑いの批評をきちんとできる人の一人として名前を挙げられる。

5月、18年間思い続けてきたムーンライダーズ鈴木慶一氏とカラオケに行く。

ナンシー関の顔面手帖<94夏>」(シンコーミュージック)、「信仰の現場」(角川書店)、「小耳にはさもう」(朝日新聞社)、「ナンシー関の百面相」(リブロポート)立て続けに発刊

1995年(平成7年)33歳

2月、「何の因果で」(世界文化社

7月、個人事務所「ボン研究所」設立。

妹の真理が結婚。祐天寺に3LDKのマンション購入、転居。

11月、「聞いて極楽」(朝日新聞社

12月、「週刊朝日」で林真理子と対談。

1996年(平成8年)34歳

全国で個展開催。

「地獄で仏」(大月隆寛との共著、文藝春秋)、「何もそこまで」(世界文化社

1997年(平成9年)35歳

「ヴィンテージ・ギャグの世界」(高橋洋二との共著、徳間書店)、「聞く猿」(朝日新聞社)、「テレビ消灯時間」(文藝春秋)、「何が何だか」(世界文化社

公式HP「ボン研」立ち上げ。ホームページ宛に芸能人の名前を挙げて「こいつをどうにかして下さい」といったメールがやたらに届く(一日平均10通)。

1998年(平成10年)36歳

4月、自動車免許の教習に通い始める。

「隣家全焼」(文藝春秋社、町山広美との共著)、「テレビ消灯時間2」(文藝春秋

1999年(平成11年)37歳

「耳部長」(朝日新聞社)、「何がどうして」(世界文化社)、「夜間通用口 テレビ消灯時間3」(文藝春秋

2000年(平成12年)38歳

ナンシー関のスケッチアカデミー」、「堤防決壊」(町山広美との共著、文藝春秋)、「冷暗所保管 テレビ消灯時間4」(文藝春秋

9月、「CREA」でリリー・フランキーとの対談「小さなスナック」連載開始。

10月、「クィア・ジャパン」で当時無名のマツコ・デラックスと対談。

2001年(平成13年)39歳

4月、自動車運転免許取得。

「秘宝耳」(朝日新聞社)、「ナンシー関のシールブック」(アスペクト)、「雨天順延 テレビ消灯時間5」(文藝春秋)、「何だかんだと」(世界文化社

2002年(平成14年)

5月、「耳のこり」(朝日新聞社

6月12日午前0時47分、虚血性心不全のため東京都内の病院で死去。享年39歳。

11日夜、友人のデザイナー坂本志保と中目黒の飲食店で餃子を食べ、坂本と別れたあと、10時ころ一人でタクシーに乗り、祐天寺の自宅に帰る途中で意識を失った。運転手が祐天寺の駅前交番に駆け込んで救急車を呼んでもらい、東京医療センターへ搬送。病院が最初に電話したのは同じ苗字だった徳間書店元編集者・関智(さとし)だった。

6.16 青森の実家に近い常光寺で通夜と告別式が行われる。遺骨は菩提寺である浅虫温泉の夢宅寺の墓に納められた。

7月、広尾の有栖川スタジオにてスタンプ葬が営まれる。

8月、青森市にて同級生によるメモリアル展開催。