1949年(昭和24年)0歳
7月10日、静岡県伊東市湯川に生まれる。本名・鈴木いずみ。父・英次は読売新聞記者。戦争中はビルマで特派員として爆撃機に同乗、戦地を取材していた。著書に『ああサムライの翼」(光人社)がある。のち小説家を志して退社。
1957年(昭和32年)7~8歳
小学校三年のとき、50枚の童話を書く。
1965年(昭和40年)15~16歳
県立伊東高校入学。文芸部に所属。1年の時、詩集「海」に「森は暗い」、「暁」、「少年のいたところ」、「しのび寄る時間」の詩作品を発表。「海」26号に小説「分裂」を発表。
1968年(昭和43年)18~19歳
高校卒業後、伊東市役所にキーパンチャーとして勤務(のち戸籍係)。地元の同人誌「伊豆文学」の同人となり、江間想の名前で「夜の終わりに」などの小説を発表。
1969年(昭和44年)19~20歳
8月、市役所を退職。まもなく上京。モデル、ホステスをしながらピンク映画界に入る。火石プロに4か月所属。芸名・浅香なおみ。
小説「ボニーのブルース」が第12回「小説現代」新人賞候補作品8篇のうちの一つに選ばれる。
9月、「週刊朝日」公募の「八月十五日の日記」に「だめになっちゃう」入選。
1970年(昭和45年)20~21歳
浅香なおみ名義で「処女の戯れ」(ミリオン・フィルム)に出演。
1月、若松孝二監督「性犯罪絶叫篇・理由なき暴行」に出演、公開。
続いていくつかの映画に主演・出演するほか、鈴木いづみ名義でも和田嘉訓監督「銭ゲバ」に出演。
東京12チャンネル「ドキュメント青春」(田原総一朗ディレクター)に主役として出演。
小説「声のない日々」が第30回「文學界」新人賞候補となり、以後、作家に転じる。
浅香なおみとしてテレビ番組「11PM」などでヌードになり「イレブン学賞」受賞。
すばらしい男が現れない限り(そして、たぶん現れないと思う。それはほとんど予感だ)私はたぶん、三年以内にレズビアンになる。(「新評」12月号)
1971年(昭和46年)21~22歳
1月3日~13日、「天井桟敷」にて「鈴木いづみ前衛劇週間」開催。鈴木いづみ作の戯曲「ある種の予感」、「マリィは待っている」が上演される。
寺山修司監督「書を捨てよ町へ出よう」に鈴木いずみ名義で出演。
ナンシー国際演劇祭に参加する「天井桟敷」に同行し、パリ、アムステルダムなどに滞在。
中原まゆみのシングル「テイク・テン/もうなにもかも」を作詞。
荒木経惟撮影の写真集が出版社の自主規制により発売中止となる。
1972年(昭和47年)22~23歳
「小説クラブ」、「現代の眼」、「週刊小説」などに短編小説を精力的に発表するかわたわら、「東京スポーツ」や「映画芸術」、「漫画アクション」などに多彩なエッセイを発表。
1973年(昭和48年)23~24歳
ジャズミュージシャン・阿部薫と出会い、婚約。
ふたりの関係を、阿部さんは「他人からは想像を絶する」といったけど、決して大げさではなく、そのとおりだと思う。
「太陽」で演劇評の連載開始。
はじめての単行本「あたしは天使じゃない」(ブロンズ社)刊行。
エッセイ集「愛するあなた」(現代評論社)
1974年(昭和49年)24~25歳
2月9日早朝、同居中の阿部薫と口論になり、左足小指を切断。ハプニングとして報じられる。
1975年(昭和50年)25~26歳
初のSF小説「魔女見習い」を「SFマガジン」11月号に発表。以後、同誌で25篇のSF小説を発表することになる。
長編小説「残酷メルヘン」単行本
1976年(昭和51年)26~27歳
4月1日、長女あづさを出産。
奇妙なほどに自分の子供をほしがっていた。だが現実の子供は頭の中でかんがえていたものとはちがって「他人」だった。
1977年(昭和52年)27~28歳
阿部薫と離婚するが、その後も同居を続ける。
「面白半分」、「奇想天外」、「ポエム」などに執筆。
1978年(昭和53年)28~29歳
9月9日、元夫阿部薫がブロバリン98錠を過量服用して中毒死。
「ウイークエンド・スーパー」に「いづみの映画私史」連載開始。
初のSF短編集「女と女の世の中」(ハヤカワ文庫)出版。
エッセイ集「いつだってティータイム」(白夜書房)出版。生前に刊行された最後のエッセイ集となる。
1979年(昭和54年)29~30歳
「カイエ」1月号に「阿部薫のこと・・・」発表。
彼の在り方はながいあいだ、悲惨だった。日常の不幸がその独自の音をだしていた。だがその生涯の最後の年に演奏家としてはとんでもない失態をやらかした。すなわちいままで目をつぶっていた「安定した自己」というものをみつけたのだ。ひどく幸福そうだった。
あがた森魚による阿部薫追悼LP「アカシアの雨がやむとき 亡きAに捧げるタンゴ・アカシアーノ」にライナーノーツ執筆。
10月3日、青山定司監督「家獣」(製作: シネマギルド花魁譚)公開(鈴木いずみ名義)
1980年(昭和55年)30~31歳
「ウイークエンド・スーパー」に「鈴木いづみの無差別インタビュー」連載開始。
ビートたけし、坂本龍一、大瀧詠一、近田春夫、所ジョージ、岸田秀、亀和田武、エディ藩、ザ・ジャガーズなどにインタビュー。
長編小説「感触(タッチ)」(廣済堂出版)
1982年(昭和57年)32~33歳
SF短編集「恋のサイケデリック!」(ハヤカワ文庫)「敬愛するミュージシャン近田春夫さんへ」という献辞がある。
1983年(昭和58年)33~34歳
長編小説「ハートに火をつけて! だれが消す」(三一書房)
わたしが小学生のとき、「これは本当のハナシよ」と母が言っていた。当時の私は意味もよく分からず、大人用の本を読んでも、字を追うのが精いっぱいで、わからない漢字は「△〇×・・・」とテキトーにやっていた。
”本当のハナシか・・・まあいいや、よくわからんけど”
(娘・鈴木あづさによる回想)
1984年(昭和59年)34~35歳
体調が悪化し、生活保護を受けるようになる。
母と暮らしていた当時は、あらゆる意味で生活に追われていた。経済的には、母がいちおう管理していたので、わたしにはその種の苦労はなかったといってもいい。わたし自身は、いつもあまりに先の見通しがない、そしてほとんど笑顔のない家での毎日をこなしていくことに追われ、二人とも精神的余裕を失っていた。
(娘・鈴木あづさによる回想)
1986年(昭和61年)36歳
2月17日、自宅の二段ベッドでパンティストッキングを使って縊死。享年36歳。
彼女はその日になるずいぶん前から「私は死ぬ」とか「死なない」とか言っていた。…子供だったわたしの精一杯の観察眼で見た限り、母はもう、役に立つとか役に立たないとか、大事なことだろうとささいなことだろうと関係なく、何に対しても超クソまじめだったように思う。それらを含めて、いろいろなことに力尽きたのだと思う。(娘・鈴木あづさによる回想)