1898年(明治31年)
8歳で稚児として高野山に預けられ、13歳で高野山の普賢院に弟子入りして真言密教の修行を始める。後年には放蕩三昧で、自ら「やくざ」や「遊び人」と称する異色の坊主だった。師は重松寛松僧正で、大隈重信や後藤新平らとも付き合いがある人物だった。
2月、諦道、アメリカに渡り、ロサンゼルスの高野山米国別院三代目主監となる(~1934年)。米国滞在中にボーイスカウト第379隊を結成する。
1931年(昭和6年)
10月23日、ロサンゼルスにて喜多川擴(英語名ジョン・ヒロム・キタガワ、のちのジャニー喜多川)誕生。父・諦道、母・栄子(江以)。4歳違いの姉・泰子(のちのメリー喜多川)、1歳上の兄・眞一(まさかず)、がいた。
1933年(昭和8年)2歳
一家で日本に移住、大阪府大阪市で生活。翌年5月、母・栄子が京都で死去。27歳の若さだった。戒名は「真乗院芳室妙栄大姉」。以来、泰子が二人の弟の母親代わりとなる。
1942年(昭和17年)11歳
太平洋戦争が始まり、子供たちだけで和歌山県東牟婁郡那智勝浦町に疎開。親戚の和歌山の有力者・大谷家が所有していた「中ノ島」の南紀勝浦温泉に身を寄せていたという。大谷家の息子大谷貴義は宝石商で、戦後の大物フィクサーとして知られる。
泰子はこの頃、軍需工場に慰問活動をしていた森光子と知り合う。
1946年(昭和21年)15歳
父・諦道が日本のプロ野球球団「金星スターズ(のち「ゴールドスター」)」のマネージャーとなる(~49年)。
1947年(昭和22年)16歳
子供たちだけで再度渡米し、ロサンゼルスの高校に入学。
1949年(昭和24年)18歳
姉・泰子と同じロサンゼルス市立大学に進学。
1950年(昭和25年)19歳
美空ひばりが育ての親・川田晴久と共にアメリカ公演を行った際、ロサンゼルス公演のステージとして父が真宗大谷派東本願寺ロサンゼルス別院を会場として用意したため、擴がステージマネージメントを担当する。
1952年(昭和27年)21歳
日本に再帰国。
このとき、服部良一の自宅に出入りするようになり、当時8歳だった良一の次男・吉次に性的暴行を加え、その回数は全部で100回位に及んだという。
再帰国したのは、米軍に徴兵され、朝鮮戦争に従軍するためで、CIA を介して韓国の戦災孤児に英語を教えながら諜報活動する工作員としての任を命ぜられ、広島県江田島市の海軍兵学校跡地を使用した米軍の学校「江田島学校」で朝鮮語を習得するため、1952年に通訳の助手という肩書きで再来日し、約10ヶ月で朝鮮語をマスターした後、韓国の板門店に派遣され、児童養護施設で暮らす子供たちに英語を教えた。子供たちに軍関係の仕事をあっせんし、小遣いを稼がせることもあった。 上記の服部吉次の証言なども踏まえると、韓国の戦災孤児たちにも性加害を行っていた可能性が極めて高い。1年2か月の兵役の後、軍事援助顧問団の事務職員として再び来日する。
再来日後はアメリカ合衆国大使館軍事援助顧問団(MAAG)の職員として勤務。
在日米軍宿舎「ワシントンハイツ」(今の代々木公園)に暮らしながら日本人の少年たちに野球を教え、チョコレートやチューインガムなどで少年たちを惹きつけていた。
いくつかの改名を経て「ジャニーズ少年野球団」を結成。
1953年(昭和28年)22歳
12月、メリー(泰子)がロサンゼルス「ハーバー高野山日本語学院」の教師となる。1956年に京マチ子が映画『八月十五夜の茶屋』に主演するためにアメリカへやって来た際には付き人を務めるなどしていた。
1957年(昭和32年)26歳
姉・泰子が再帰国する。泰子は四谷三丁目の円通寺坂入口右手の角にてカウンターバー「SPOT」を経営していたが、擴が事務所を興すとバーを閉店して事務所の経理を担当するようになり、やがて「ジャニーズ」のマネージャーや「フォーリーブス」のスタイリストなども受け持つようになり、以来、タレントの扱いやショーのプロデュースをする弟の擴に代わり、自らは副社長という立場で会社経営の全般を取り仕切るようになっていく。
1958年(昭和33年)27歳
「在日軍事援助顧問団」(MAAGJ:Military Assistance Advisory Group Japan)の下士官事務職員に任官され、旧防衛庁(霞が関)にあった顧問団の事務所に勤務するようになる(~1966年)。
MAAGJに勤務していた期間、擴は下士官事務職員として米国軍人および外交官の立場にあったため、外交特権(外交官は接受国の刑事・民事・行政裁判権からの免除を享有する)を享受できる立場にあった。
夜毎、外交官ナンバーの車で新宿・花園神社の界隈に繰り出し、「ケニー」、「L」、「牛若丸」といったゲイバーで遊んでいたこと、更に新宿駅南口で網を張り、田舎から出てきた少年たちに声をかけては、常宿の「相模屋」(1泊600円のベッドハウス)に連れ込んでいたことを、当時のゲイ仲間・原吾一が著書『二丁目のジャニーズ』シリーズで明かしている。
1962年(昭和37年)31歳
4月、自身の野球チームのメンバーである4名の少年により最初のグループであるジャニーズ(通称・初代ジャニーズ)を結成。当初は名和新芸能学院に在籍。
1964年(昭和39年)33歳
6月、「ジャニーズ事務所」を創業し、渡辺プロと業務提携し窓口とする。
「新芸能学院」から立替費用の支払いを求めて民事訴訟を提起される。所属する未成年男子に対する喜多川の猥褻行為も争点となる。この裁判ではいくつかの証言があったにもかかわらず擴の性加害は認定されなかった(このあたりの経緯は別記事参照)
ちなみに、擴は前述のとおり外交特権を有していたが、新芸能学院との騒動は「MAAGJの公務の範囲外の職業活動」で起こった問題であり、特権の対象から外れていたため訴訟が可能であった。
1965年(昭和40年)34歳
「ジャニーズ事務所」が正式に事務所を構える。
1966年(昭和41年)35歳
7月、姉メリーと『SPOT』の常連客だった5歳年下の作家・藤島泰輔の間に藤島ジュリー景子が誕生。藤島には当時妻がおり、不倫問題が報じられた(『週刊新潮』1974年9月5日号他)。 メリーは誰にも気付かれないようにアメリカに渡って極秘出産。認知も求めなかったが、藤島が1972年に離婚し、メリーと再婚する。
藤島泰輔は1956年(昭和31年)、学習院高等科時代の明仁上皇(当時皇太子)ら「ご学友」達を題材にした小説『孤獨の人』で作家デビューしている(1997.6.28没)。
1967年(昭和42年)36歳
4月1日、「フォーリーブス」結成。メンバーは北公次(1949年生)、青山孝史(1951年生)、江木俊夫(1952年生)、おりも政夫(1953年生)。結成当時まだ小学6年生だった永田英二は退団。
11月27日、初代ジャニーズ解散会見。
1970年(昭和45年)39歳
10月、「ジューク・ボックス」(円谷弘之、小谷純、吉本暁弘、やなせかおる)が「さよならの祈り」でデビュー。
1971年(昭和46年)40歳
映画「潮騒」のオーディションに落選した郷ひろみをスカウトしてデビューさせる。所属タレントの寮では、他の寮生たちと違い、一人だけ擴と同じ食事メニューを与えるなど、超VIP待遇を授け、芸能活動の多忙化のため転校した堀越高等学校の芸能コースに持っていく弁当は擴が作っていた。
1974年(昭和47年)41歳
4月、父・喜多川諦道死去。戒名は「阿闍梨諦道大和尚不生位」。晩年は大阪・心斎橋で「杵萬」という煎餅屋に居候していた(「ゴールドスター」のオーナーだった橋本三郎の親族が経営)。泰子と景子は参列したが擴は葬儀に参列せず。
1975年(昭和50年)44歳
1月、「株式会社 ジャニーズ事務所 」を法人化する。
末期の十二指腸潰瘍で入院中に郷ひろみがジャニーズ事務所を退所し、バーニングプロダクションに移籍する。
1977年(昭和52年)46歳
7月、川崎麻世が「ラブ・ショック」でデビュー。
1978年(昭和53年)47歳
8月、フォーリーブス解散。
1979年(昭和54年)48歳
田原俊彦、近藤真彦、野村義男が10月からTBS系ドラマ「3年B組金八先生」に出演。
郷ひろみ退所後しばらく苦境にあったが、ここから1980年代には「たのきんトリオ」をはじめ、「シブがき隊」「少年隊」「光GENJI」「男闘呼組」などの人気グループを次々にデビューさせ、業界に「ジャニーズ帝国」の名を轟かせることになる。
1980年(昭和55年)49歳
音楽著作権を管理するジャニーズ出版、コンサートの企画、運営を行うヤングコミュニケーションを設立。
1981年(昭和56年)50歳
『週刊現代』(1981年4月30日号、講談社)にて、「『たのきんトリオ』で大当たり アイドル育成で評判の喜多川姉弟の異能」と題し、ジャーナリストの元木昌彦がジャニーの性趣向問題について言及。
直後、メリーから編集部に「今後、講談社には一切うちのタレントを出さない」と猛クレームが入り、元木は処分として『週刊現代』から『婦人倶楽部』の部署へと異動させられた。
1982年(昭和57年)51歳
5月、「シブがき隊」(薬丸裕英、本木雅弘、布川敏和 )歌手デビュー
1983年(昭和58年)52歳
『噂の眞相』(1983年11月号)が、「ホモの館」と題してジャニーズ事務所の合宿所の写真を公開。
1985年(昭和60年)54歳
1月、広告事業関連会社ユニゾン設立。代表取締役社長は藤島ジュリー景子。
ロサンゼルスでNASA関連の仕事をしていた兄・眞一がクモ膜下出血で倒れる。メリーがプライベートジェットで日本に連れ帰り、大阪の病院で治療。いったんアメリカに戻るが翌1986年1月に55歳で死去。 戒名は「樹徳院諦真法道居士」。ロサンゼルスで結婚した日本人女性の妻との間に娘がいた。
8月12日、御巣鷹山に墜落した日本航空123便に擴と少年隊も搭乗する予定だったが、スタッフから「マッチが舞台の会見を開くから急いで来てほしい」と電話が入り、擴だけが急遽12日の搭乗予定を1日前倒しして大阪に飛び、少年隊は東京に残ることとなったため一命を免れた。
12月、「少年隊」(錦織一清、 植草克秀、東山紀之)シングル『仮面舞踏会』でレコードデビュー。
1988年(昭和63年)57歳
8月、「男闘呼組」(成田昭次、高橋和也、岡本健一 、前田耕陽)、『DAYBREAK』でレコードデビュー。
8月、「光GENJI」(内海光司、大沢樹生、諸星和己、佐藤寛之、山本淳一、赤坂晃、佐藤敦啓)、『STAR LIGHT』でレコードデビュー。
11月、元フォーリーブスの北公次が『光GENJIへ』(データハウス)を出版し、ジャニー喜多川の少年性愛を暴露し批判。これに続く「暴露本」の先駆けとなる。
1989年(平成元年)58歳
元ジューク・ボックスの小谷純・やなせかおる著『さらば!!光GENJIへ』(データハウス)、元ジャニーズの中谷良著『ジャニーズの逆襲』(データハウス)が出版され、ジャニー喜多川による性加害などの実態を告発。
5月、「有限会社 ジェイステーション」設立(ファンクラブ会報誌やJr.名鑑の発行、タレントグッズの販売、日本全国のジャニーズショップの経営を行う)
8月、写真週刊誌「FOCUS」に田原俊彦の全裸写真流出。ジャニーズ事務所の合宿所内でジャニー喜多川に撮影されたもの。
1991年(平成3年)60歳
2月、株式会社 つづきスタジオを直営リハーサルスタジオとして設立。
9月、「SMAP」(中居正広、木村拓哉、稲垣吾郎、草彅剛、香取慎吾)シングル『Can't Stop ! ! -Loving-』でCDデビュー
1994年(平成6年)63歳
9月、「TOKIO」(城島茂、国分太一、松岡昌宏、長瀬智也、山口達也)、「LOVE YOU ONLY」でデビュー。
1995年(平成7年)64歳
9月、光GENJIが名古屋市総合体育館コンサートで解散、諸星は独立。
11月、「V6」(坂本昌行、長野博、井ノ原快彦、森田剛、三宅健、岡田准一) デビュー。
1996年(平成8年)65歳
平本淳也著『ジャニーズのすべて―少年愛の館』(鹿砦社、1996年)出版。
1997年(平成9年)66歳
2月、レコード会社ジャニーズ・エンタテインメントを設立(KinKi KidsのCDデビューを見据え設立。2003年に小杉理宇造が代表取締役となる)。
3月、豊川誕著『ひとりぼっちの旅立ち - 元ジャニーズ・アイドル 豊川誕半生記』(鹿砦社)出版される。
7月、堂本光一、堂本剛の「KinKi Kids」が「硝子の少年」でデビュー。
児童劇団の子役出身の堂本剛は、小学5年生で子役活動を辞め芸能界を引退していたが、姉の薦めでジャニーズに入った。 しかし成功するためとして、小学6年生から擴の性的な行為を耐え忍び、中学2年生(14歳)の時に奈良県から東京の合宿所に転居してからは擴の性行為は更に過熱していった。 当時剛と非常に親しい関係にあった元Jr.の星英徳は、「剛は普通のJr.たちとは違うレベルの性行為をジャニーさんから受けていて、そのことにいつも悩んでた。剛が病んじゃったのはジャニーさんが原因」と2021年6月25日のツイキャス配信で証言した。剛は15歳から芸能活動へのストレスも相まってパニック障害を抱えるようになり、長年に渡り自殺を考えるほど苦しんだという。
実際、ジャニーズJr.の矢本俊仁は、擴からの深刻な性的虐待・性加害に遭い続けて苦しみ抜いた末、心を病んで18歳の若さで飛び降り自殺した。
上述の元Jr.星英徳によれば、「ただのJr.だった自分ですら、何十回もやられた。 ジャニーさんが特に好んだのは、小中学生の段階のJr.。 時には平日の朝から学校を休んで合宿所に来いと呼び出され、マンツーマンで性行為を受けた… メジャーデビューしたメンバーは必ず全員やられている。 これは必ずです! 必ずです! 全員やられてる! そもそも断ったらデビュー出来ない」という異常な状況であった。
1998年(平成12年)69歳
11月、暴力団の儀式や盃事を模倣した、田辺エージェンシーの社長・田邊昭知の「五分義兄弟盃の儀」(還暦披露会 兼 生前戒名授与式)に出席し、媒酌人を務める。
1999年(平成11年)68歳
11月、「嵐」(大野智、櫻井翔、二宮和也、相葉雅紀、松本潤)がデビュー。
『週刊文春』が一連の特集記事で、「芸能界で多大な影響力を持つジャニー喜多川氏がスカウトした未成年男子に対して優越的立場を利用し、性器を弄んだり、肛門性交するなどの虐待をしていた」と報じ、ジャニーズ事務所と擴はこれに対して名誉棄損による損害賠償等請求訴訟(1億円余の慰謝料と謝罪広告掲載の要求)を提起。
2000年(平成12年)69歳
4月13日、自民党議員阪上善秀が衆議院で児童虐待問題を取り上げ、政府、警察、NHKの姿勢を追求するも、何ら具体的な動きは見られなかった。
2001年(平成13年)70歳
11月、音楽、映像制作会社ジェイ・ストーム設立(ポニーキャニオンから独立した嵐のレコードレーベルとして藤島ジュリー景子が設立)
2002年(平成14年)71歳
3月27日、文春との訴訟の東京地裁判決で、文春側が880万円の損害賠償を命じられる。地裁は少年らの供述の信用性を認めなかった。
8月、「株式会社エム・シィオー」を出版社として藤島ジュリー景子1人だけで設立。
10月、「株式会社 東京・新・グローブ座」を買収、運営を開始する。
2003年(平成15年)72歳
4月、菊田一夫演劇賞特別賞を受賞。
11月、「NEWS」(小山慶一郎、増田貴久、加藤シゲアキ、手越祐也、 山下智久、錦戸亮)デビュー
7月15日、東京高裁の控訴審判決(矢崎秀一裁判長)で、ジャニー喜多川による所属タレントへの性的虐待が認定されたが、マスコミはほぼ黙殺の姿勢を取ったため、一部を除いてほとんどの国民はそのことを知らなかった。性的虐待部分の勝訴が取り消され、損害賠償額は120万円に減額された。
2004年(平成16年)73歳
ジャニー側の上告が最高裁に棄却され 、120万円の損害賠償と性的児童虐待行為認定が確定。
9月、「関ジャニ∞」(横山裕、村上信五、丸山隆平、安田章大、大倉忠義、錦戸亮、渋谷すばる、内博貴)デビュー
2005年(平成17年)74歳
6月、「株式会社 アートバンク」をモバイル専用の有料サービスサイト 「Johnny's web」のために創業。
元光GENJI候補の木山将吾(山崎正人)著『SMAPへ - そして、すべてのジャニーズタレントへ』(鹿砦社)出版。
2006年(平成18年)75歳
3月、「KAT-TUN」(亀梨和也、上田竜也、中丸雄一、田口淳之介、田中聖、赤西仁)デビュー
2007年(平成19年)76歳
11月、「Hey!Say! JUMP」(薮宏太、髙木雄也、伊野尾慧、八乙女光、有岡大貴、山田涼介、中島裕翔、知念侑李、岡本圭人、森本龍太郎)デビュー
2011年(平成23年)80歳
8月17日午前9時45分頃、渋谷区渋谷の自宅マンションに男が侵入し、擴を閉め出して篭城するという事件が起こる。
8月、「Kis-My-Ft2」(横尾渉、藤ヶ谷太輔、宮田俊哉、玉森裕太、二階堂高嗣、千賀健永、北山宏光)デビュー
11月、「Sexy Zone」(中島健人、菊池風磨、佐藤勝利、松島聡、マリウス葉)デビュー
2012年(平成24年)81歳
2月、「A.B.C-Z」(五関晃一、戸塚祥太、塚田僚一、河合郁人、橋本良亮)デビュー
3月12日~18日、元ジャニーズJr.の武口明が自身のブログ『あの頃のジャニーズ 』に、ジャニー喜多川の性加害について書く。
10月16日、車で追突事故を起こし、警視庁赤坂署は擴を自動車運転過失傷害容疑で書類送検。 事務所を通じ「今後は車の運転は行いません」とコメント。
11月、「チャート1位を獲得した歌手を最も多くプロデュースした人物」としてギネス世界記録に認定される(のちに不適当として抹消)。
2014年(平成26年)83歳
4月、「ジャニーズWEST」(中間淳太、濵田崇裕、桐山照史、重岡大毅、神山智洋、藤井流星、小瀧望)デビュー
11月、米国籍から離脱し二重国籍状態を解消。
自宅エレベーターのドアが開かなくなり、2日間閉じ込められる。
2015年(平成27年)84歳
1月、NHKラジオ第1『蜷川幸雄のクロスオーバートーク』に出演し、蜷川幸雄とのトークが放送される。上記のエレベーター事故について話す。
1月13日、メリー喜多川がSMAPのチーフマネージャー・飯島三智を、『週刊文春』の記者の面前で激しくパワハラ恫喝。
2016年(平成27年)84歳
1月18日、スポーツ紙の解散報道を受け、SMAPメンバーがフジテレビ『SMAP×SMAP』に生出演し、世間を騒がせたとして謝罪。
8月、SMAPが解散を正式に発表。年末をもって解散。
2017年(平成28年)85歳
「株式会社 ジェイベース」がジェイステーションから業務の大半を引き継ぐ。
2018年(平成29年)86歳
5月、「King & Prince」(永瀬廉、髙橋海人、岸優太、平野紫耀、神宮寺勇太、岩橋玄樹)デビュー
2019年(平成30年)87歳
1月、嵐が2020年12月31日をもって無期限活動休止すると発表。
6月18日、自宅で家政婦に体調の異変を訴え、病院に向かおうとした所、意識を失う。 家政婦の119番通報で広尾の日本赤十字社医療センターに救急搬送された。
集中治療室(ICU)で救命措置を施し、一般病棟に移ってそのまま入院。 診断結果は解離性脳動脈瘤破裂によるくも膜下出血。 自宅で倒れて以降、意識が戻らぬ状態が続く。
7月9日午後4時47分、入院中の病院で死去。