INSTANT KARMA

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ナマイキゆーんじゃないわよ!

ラカンを読んでいたらマカロニほうれん荘が読みたくなった。なぜなら、このマンガの物語はラカンのいう「父の名」が欠如したパロールの暴走を扱っているからだ。

というのは嘘だが、このマンガには「父」の存在が欠如しているのは確かである。

そうじには父親がいない(母親はいることになっているが一度も登場しない)し、姫野かおりにも父親がいない。文子先生にもいない。このマンガに「父親」として明確に登場するのは「クマ先生」だけだが、読めば分かる通り、彼は「父の権威」を完璧に剥奪された存在である。

トシちゃんときんどーさんは「父の名」を拒絶したまま生きている、というよりそこから目を背けて想像的な遊戯に没頭している。

マカロニほうれん荘』については以前にも紹介した素晴らしい考察サイトがあり、付け加えることは何もないのだが、この中で次のように指摘されている。

欠けているのが常に男親であるのは少し興味深い。

いずれにせよ、血縁的家族に穴が開いたところにマカロニほうれん荘の世界は芽吹いている。きんどーと膝方は同年代や年下の友人に親の役目を求め、かおり、文子、そうじ、クマらはそれに(内心は喜んで)応じている。彼ら・彼女らは「親子ごっこ」「家族ごっこ」をしているのではないか。そういう方向から見てもこのマンガは、「ずいぶんだだこねた」(1話)そうじのように血縁的家族から抜け出たい人間にとっての一種の理想的家族論、理想的共同体論なのだ。

ここで指摘されている「理想的家族論」において「父の欠如」が何を意味するのかはハッキリしている。父とは<大きな他者>である社会の象徴であり、世の中の掟を子供の中に植え付ける存在である。

トシちゃんときんどーさんの悪ふざけにたいして本当に怒ってくれる父親的存在はこの物語の中にはいない。そうじの二人への戒めのポーズは単なる「ツッコミ」であり、真に反省させる力と威厳を持たない。かおりさんも似たようなものである(膝方を黙らせることができるのは文子先生だけで、文子先生が疑似的に父の役割を担っているのに最も近い存在であるのは興味深いが、彼女はこの作品の主要なキャラクター〔中核となるレギュラーメンバー〕とは言えない)。

マカロニ2人組は、「頭のおかしい」人間であることは確かだが、臨床的な意味で「精神病」かといえばそうではないだろう(後にレギュラーになる馬之助はマジでイッてるところが見受けられるが)。彼らは意識的に悪ふざけに従事し、「大人の社会の掟」の侵入をテッテ的に堰き止めようとしている。そのことはきんどーより膝方の方によりよく当てはまる。

膝方は童話作家「七味とうがらし」でもあり、メルヘン作家として非常に人気を博している(その作品をかおりも愛読している)。作家としての七味はその限りにおいて立派な社会的存在なのだが、本人はどうもそこに居心地の悪さを感じているようである。

というのも、七味が楽しみながら自分の作品を書いている描写はなく(作家としての表現衝動があるようには見えず)、七味の思考には常にネガティブな傾向がある(印税を全部募金したら世間からバッシングされるし募金しないでも叩かれるだろうといった想像)。七味が登場する回はいずれも世の中の暗黒面を垣間見せるものとなっており、七味がそれに直面し、恐怖するという構図が取られている(最も鮮明な表現が信じ難いほど精緻に描かれたあの夜の街の場面である)。

最終的にこの作品が終わるのは、(実際には作家のエネルギーが使い果たされてしまったという事情があるにせよ)膝方の正体がルミ子やかおりにバレてしまい、膝方と七味の二重生活が破綻してしまったことがストーリー上の原因となった。

そして膝方が頑ななまでに女性と恋愛関係になるのを拒むのはなぜか(それには肉体関係の徹底した拒絶というより無視も含まれる)。初期の描写には膝方が女性にちょっかいを出す描写はあったのだが、中期から後期にかけてどんどんストイックになっていき、遂にはルミ子に目の前で裸になられても逃げてゆく。考察サイトではこのように書かれている。

何故そこまで女性の愛から、恋愛から逃げるのか? 答が言葉でどこかに書いてあるわけではない。マカロニほうれん荘というマンガ全体がその答になっている。

膝方は恋愛、家庭、幸福といったものと引き換えに遊び、自由あるいは「ちょー人のマジック」「子どもの万能性」を得ており、前者を得れば後者を失ってしまうのだろう。おそらくそれを彼は自分でよく知っている。そして、何度も自身で繰り返しているように既に25才である彼はそろそろ分かれ道に立ってもいる。

これが一つの模範回答であることを前提として言えば、もう一つの回答は、作者(鴨川つばめ)が(連載当初は主人公沖田そうじに移入していたが)次第に膝方歳三に移入するようになったから、であろう(この膝方には七味とうがらしも含んでいる)。

酒井七馬に憧れ、ギャグマンガに殉じるような気持ちで禁欲的に創作活動に没頭しているうちに、作者の禁欲的な姿勢が膝方の中に注入され、自我理想が形成されていった。そこにはテディ・ボーイズ伊達の女性観にも表れている、女性に対する偶像的理想化の作用も働いている(簡単に言えば童貞の空想。作者が実際に童貞だったかどうかは知らないが、作者の描く女性キャラクターがあんなにも可愛く魅力的なのは童貞的リビドーが生んだ最良の表現の一つといえる)。

それにしても、あの作品を描いたのが当時20歳~22,3歳の若者だったというのは、今の年齢になって改めて振り返ってみると、唯々衝撃としか言えない。