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亀之助と賢治

私はしばしばおもったものだ「尾形亀之助は私一人のために存在した詩人ではないだろうか」と、またしばしば思ったものだ「私のような読者が確かにいることは尾形亀之助にとって名誉なことではないか」と。

 

辻まこと尾形亀之助」(「尾形亀之助全集付録資料」思潮社、1970年)

辻まことは18、9歳のころに父親・辻潤の本棚にあった『障子のある家』ではじめて亀之助を読んだ。限定70部の非売品で、普通に手に入れることはほとんど不可能だった。

辻まことはそれ以来、いつもこれを持ち歩き、応召して中国の華北戦線に送られたときも、万里の長城を背景に塹壕の中でこの詩集を読み返した。

私は彼の一冊の詩集だけを選んでポケットに入れ戦争に行った。惨憺たる数年の風景の中で私がどうやら自分の脚で立っていられたのは尾形亀之助の声なき哄笑をきき、運命をかりそめのものとして眺められたからだとおもう。

 

辻まこと「わが『深き淵』尾形亀之助

辻まことが戦場で体験したものは、戦後二十年を経て書かれた「山賊の話」に記されている。その戦場体験は「軍隊」などと呼べるものではなく、まさに「山賊」でしかなかった、というのがこの題名の含意である。

そして、戦後の混乱のまだ静まらなかったある日、辻まことは銀座の地下室のバー「ルパン」で偶然に草野心平と顔をあわせる。お互いにどうしていたかなどと話あい、健在をともかくも祝福しているうちに、草野心平尾形亀之助の作品を出したいと思っていると言い出した。

辻は尾形亀之助の名前を聞いた瞬間に理由もなくギクッとした。

『障子のある家』をそのままの姿で復刻したいとおもうが差し当たって本をさがすのが困難だという。

「それならばボクがもっています」

「なに? 本当か、どこにある」

「いまもってますよ」

「いまってここにか」

辻は「そうです」とポケットから出してカウンターの上に置いた。草野は実に妙な顔付きでこれを眺めた。信じられないといった面持ちの一瞬だった。

 

草野心平は1940年に中国へ飛び、南京政府代表として日本側宣伝部顧問として活動した。大東亜文学者大会では日本と中国の橋渡しとして活躍した。現地で陸軍に現地召集され二等兵になった。帰還して二年後には詩誌『歴程』を再結集し、翌年には『逸見猶吉詩集』と亀之助の『障子のある家』を復刻させた。戦後長く詩人として活躍を続け、文化勲章をもらって1988年まで生きた。

辻まことに銀座で出くわす前の1947年に、草野は「尾形亀之助のこと」という文章でこう書いている。

彼は詩人だった。詩人だと私が言う場合それは本当の詩人の事だと、私は私のそんな頑固さを信じてもらいたいと思う。なぜなら詩を書いているからといって、ちょっとした気の利いた詩を書いているからといって私はその人をたやすく詩人だとは思わないタチなのだから。そして尾形は文学上はっきりと尾形一人しかいなかったという大きな事業を残していった。

草野心平宮沢賢治の紹介者としても知られる。「春と修羅」を読んで衝撃を受け、賢治から蜜柑箱で送られてきた童話集「注文の多い料理店」を一冊、尾形亀之助に手渡した。尾形は自らの詩誌『月曜』に「オツベルと象」などの賢治の童話を載せた。

草野は宮沢賢治追悼に際して書かれた文章にこう書いている。

最後に一言ドナラしてもらえるならば。日本の原始から未来への一つの貫かれた詩史線上の一つの類まれなる大光芒で宮沢賢治があることはもう断じて誰の異議もはさめない一つのガンとした事実である。

こうした草野らの尽力もあって、没後に宮沢賢治文学史上の評価は確立された。

亀之助もまた、宮沢賢治の追悼文「明滅」を「岩手日報」に寄せ、草野の編集した追悼集にもその続きとして「明滅2」を書いている。

ところが、のちに出た改訂版では、草野の手によって亀之助の書いた「明滅1・2」は削除されている。

このことについて、評伝「単独者のあくび」の著者・吉田美和子は、亀之助のシニカルな文体に違和感があり、花巻での追悼公演会で泥酔して近親者から不評を買ったことなどが影響しているのではないかという。

「明滅1」は創作物語のスタイルで描かれており、その内容は明らかに銀河鉄道の夜のパロディである(興味があればネットで全文読める)。しかし「銀河鉄道の夜」は賢治の生前には出版されておらず、遺稿に含まれていたので、亀之助が読む機会はなかったはず。これについても前述の評伝作者・吉田は、草野心平から内容を聞いていた可能性や、賢治と親しかった石川善助(賢治より先に逝去)から内容を聞いていたのではないかという仮説を述べている。確かに偶然の一致にしてはできすぎている。

「明滅2」には賢治は登場せず、行ってしまった賢治を探し求める草野を亀之助が宥めるといった話になっている。

どちらも、追悼とも読めるし、賢治に対する亀之助の仄かな違和感の表明(少なくとも仄めかし)と読み込む人がいるのも理解できるような文章ではある。

亀之助には「ほんたうのさいはひ」や「雨ニモ負ケズ」のような求道的、理想主義的傾向は皆無であり、日蓮宗の熱烈な信徒であった賢治のような人間とは体質的に相容れないものがあるのは確かだろう。

或る意味対照的な資質を持つ二人であるが、賢治の詩よりは亀之助の詩に力を与えられる辻まことのような人がいるのも事実なのだ(多分僕もそのうちの一人である)。

私は世界と人生について、もっとも悪いしらせを聴くことをよろこぶものだ。それを聴くことは、私がそれを告げるものではないことの自覚とそこから立ち上がることが自力であるに違いない勇気を私に与えるからだ。

私の生活のうちに快活な形而上学を産んだものは、尾形亀之助の遺書に書かれた「現実」の意識だったといまにしておもえる。

 

辻まこと尾形亀之助―特に『障子のある家』について」(「尾形亀之助全集付録資料」思潮社、1970年)