INSTANT KARMA

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亀之助と賢治(その2)

ある晩、象は象小屋で、ふらふら倒れて地べたに座り、藁もたべずに、十一日の月を見て、
「もう、さようなら、サンタマリア。」と斯う言った。
「おや、何だって? さよならだ?」月が俄かに象に訊く。
「ええ、さよならです。サンタマリア。」

宮沢賢治オツベルと象」より

尾形亀之助は、宮沢賢治の没後すぐに昨日紹介した「明滅」(その1,その2)という追悼文を書いているが、その6年後の1939年(昭和14年)4月にも宮沢賢治第六十回誕生祝賀会(第二夜)」という随筆を発表している(「歴程」六号)。

1932年(昭和7年)に東京を離れ仙台に帰郷してからの亀之助はほとんど書かなくなり、この年に発表したのは他にひとつの作品(「風邪」)のみである。

「明滅」も評論やエッセイというより創作物語的な文章だったが、この「宮沢賢治第六十回誕生祝賀会(第二夜)」も随筆というより、見た夢をそのまま文章にしたような、不思議な作品である(全文はネットで読める)。

そもそも宮沢賢治は37歳で亡くなっているから、60回誕生祝賀会などという設定からしてずいぶんおかしな話なのだ。それも「第二夜」とはどういうことなのか。

作品はこんな風に始まる。

当夜は友人ばかりの集まりだつた。今になつて考へれば、宮沢だけが年相応に白髪はえた見るからに六十くらいの年配なのに、われわれは現在のままの姿であつたのを、宮沢さへ六十ならそれでいいという風に思ひ込んでゐたものか誰も不思議がらずにゐるのでした。

ちなみに亀之助は生前の賢治に会ったことはないとされる。当然写真などで風貌は知っていただろうが、直接の面識はない。

賢治だけが白髪で見るからに六十くらいなのに亀之助らは現在のままの姿であるということからして、なんだかもうこの世の話ではない気配が立ち込めている。夢の中ではこういうことはしばしば起こる。そして夢の中では不条理なことが起きても不思議がることはあまりない。

中央テーブルの大きな盛花を前に宮沢夫妻の席があつて、宮沢は自分の席を空けて夫人の方の席に就き、その左右の列前の列とそれぞれ人達が席についてゐたが、私達の仲間はその三分の一ばかりで、あとは×大学名誉教授として学位を二つ持つてゐる彼の地位としてはその道の大家権威の顔も揃つて、友人ばかりといつても真面目な私などには肩ぐるしい感じさへするのであつた。が、幸ひそれらの権威どもは唯の影坊子のやうにいたつてかすかな物音だけしかさせず、しかもそのかすかな物音もしばらく消えてしまつてサイレント映画のやうなものを私は感じてゐました。

友人ばかりの集まりなのに、大学名誉教授やらその道の大家権威の顔がそろっているというのもなんだか変な話だ。強いて解釈すれば、賢治の没後に彼の作品が急に高く評価され、教科書などにも載るようになり、宮沢賢治という人物の神格化めいたことが起こったことに対する違和感の表明とも感じられる。

すると、突然拍手がおこつて人々がざわめくと、すつくり宮沢が立ち上がりました。
 「昨夜にひきつづき祝賀を受け、今夜は妻までもご招待にあづかり――」と、言ひかけたとき、私ははつとしました。宮沢は宮沢賢治といふ名札の席を空けて宮沢夫人と書かれた名札の席から立つてゐるのだつた。

賢治はもちろん独身のまま生涯を閉じた。女性に対しては潔癖症で、恋愛のエピソードさえ伝わっていない。宮沢夫人と書かれた名札はあっても、夫人はそこには座っていない。そもそも夫人がいるのかどうかさえ分からない。

何時の間に宴がはてたのか、私は一人歩音のしない路を歩いてゐた。私は肩をこずかれたやうな気がしてふりむくと、草野が青い顔をして立つてゐる。
 「奥さんのことか」といふと
 「うん――」と言ふ。
 「君の趣向じあなかつたのか」といふと、頭をふつて
 「間違ひにきまつてゐるさ――」と私の先になつて歩いて行くのだつた。

いつのまにか祝賀会は終わっている。それはなんの記憶にも残らない、中身のない、形式だけの、まるで出席者の見栄と虚栄心を満たすだけの空虚な集まりだったようだ。

草野心平とのやり取りから、心平は宮沢夫人に不満で、亀之助も同じ印象をもったということが示唆されている。何が不満なのか。「間違いにきまっているさ」という心平の言葉は、あの賢治に限って、とても選びそうにないタイプの女性であったと言いたげである。

私が、「しかし――」と、言ひかけると、草野はあわててそれをさへぎつた。私が、こうして二人で歩いてゐればその辺から宮沢夫人がひよつこり出て来て挨拶されるんじやあないかと、言はうとしたのだが、とつさに草野がそれと知つてのことだと私もわかつたのだ。草野は
 「何、おれはここからこつちへ行くんだ、君はそつちへ行くんだろ、宮沢夫人が出て来つこないよ――」と曲つて行つてしまつた。

二人が見た宮沢夫人は、二人が歩いていたらその辺からひょっこり出てきて挨拶するんじゃないかと思われるほど社交的な女性らしい。彼女の側には屈託というものがない。賢治という伴侶を愛しているし、高名な大学教授やその道の大家権威たちに誕生日を祝福される夫を誇りに思い、満足している。

でも、賢治、おまえはそんなことでいいのか?

おまえの詩は、その程度で満足できちまうものだったのか?

そして、デヤボロといふ歌のふしで草野が歌つて行くのが聞えた。
 「手の中の一本のすみれは賢治じあないよ
  タンポポは黄色い花だ
  電柱棒、でくの棒、足は歩くよ
  宮沢さんの奥さんは何処にゐるのか、雲の中か――は、は、はは、はのはあ――
  ゐないよ、見えないよ、見えないからゐないよ、馬鹿野郎、何処かの馬鹿野郎――」

「黄色」は亀之助の作品を貫く色彩である。そして「すみれ色 Violet Blue」は宮沢賢治の世界を象徴する色ではなかったか。

亀之助が発刊したメルヘン詩誌『月曜』の創刊号に載せた賢治の『オツベルと象』を亀之助はたいへん気に入って、よく「うれしいな、かなしいな、サンタマリア」とへんてこな節をつけて歌っていた、と草野心平は証言している。

ベタな解釈をすれば、亀之助は賢治が「変わってしまったこと」が気に入らないのだ。宮沢夫人は、賢治が「変わってしまったこと」を象徴するような女性であったのだ。そして現実に心平がどう思っているかはともかく、亀之助の中では心平はまだ賢治の側じゃなく亀之助の側にいる人間(詩人)であるのだ(とはいえ、二人は別々の道を行き心平は「曲って行って」しまうのだが)。

だが「変わってしまった」のはすでに亡くなった賢治であるはずがない。亀之助が遠巻きに皮肉って見せたのは、賢治の作品がいつのまにか新体制運動を盛り上げるために駆り出され、「風の又三郎」が国策映画化され、「雨ニモマケズ」が『詩歌翼賛』(大政翼賛会文化部編)に組まれるようになっていく社会の変化であろう。

次の日、眼が覚めて頭が痛かつた。やつと眠つたのが三時過ぎだ。女房が何処かへ行つてしまつたので、私も子供達も万年床だ。疾く帰れ。

夢オチであることがそれとなく明かされている。この詩が書かれたのは、その後何度も繰り返される妻・優子の家出の最中であったらしい。

 

この作品はわかりにくく書かれてはいるが明確な反体制詩である、というのが僕の解釈だ。

高村光太郎とは違って、「自己省察と内部的検討のおよばない空白の部分」を「生活意識」としてのこしておかなかった亀之助は、「内部を現実のうごきとはげしく相渉らせ、たたかわせながら、時代の動向を凝視して離さない」そういう至難の持続力を保ち得たのであった。

以下の過去記事参照

wellwellwell.hatenablog.com