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すれちがい

中川敬ソウル・フラワー・ユニオンが、吉田豪との対談の中で「ザ・ストリート・スライダーズは1970年代のNasty Musicの頃のスタイルをほぼ完コピして完成されていて凄いと思った。ただ歌詞はダサいと思った」と述べているが(下の動画の1:09:03以降の部分)異論がある。

youtu.be

ダサいかダサくないかは主観の問題なので、どちらが正しいということはない。

自分はスライダーズの歌詞がダサいと思ったことはない。あの<Nasty Music>のスタイルに完全にハマった最高のフレーズで満たされていて、まったく外したところのない完成された歌詞だと思っている。ハリーの作詞家としての才能にも感心している。

ニューエスト・モデルは聞いたことがなく、その歌詞も全く知らないので、今ネットで適当にいくつか読んでみたが、正直こっちの方がダサいと思った。これも自分の主観でしかないから、正しいかどうかという結論は出ない。

そういう不毛な議論をするつもりはなくて、自分が思い出したのは、中川と外山恒一のインタビュー記事である。

1994年ころに行われたこのインタビューには音楽の話はまったくなくて、途中から中川と外山の議論になっていくのだが、実はとても興味深い論点を孕んでいる。

「少なくともニューエストに関しては、反原発に代表される80年代後半の新しい反体制運動の高揚期を同時代人として生きているバンドというイメージを持っていた」外山は、北海道の先住民族アイヌをめぐる問題が中心的なテーマとして扱われている新作について、中川自身にとってアイヌ問題とはどういうものなのか、なぜアイヌ問題なのかを問うた。

そこで外山が問いたかったのは、抑圧側が被抑圧側について安易に語っていいものか、ということではなく、「人間を2つあるいはいくつかの階層に分けて社会システムを把握する発想がもはや無効ではないのか」という問題であった。

たとえば、人間をブルジョアジー(資本家階級)とプロレタリアート(労働者階級)に分けてプロレタリアの解放を云うマルクス主義、男と女に分けて女の解放を云うフェミニズム被差別部落在日朝鮮人、障害者、アイヌ・沖縄民族などの被差別階層の立場からモノを云うさまざまの反差別運動……。こうした運動にかかわる人々は、自分の抱えている不全感をいつも「わたしたち女は」「わたしたち在日朝鮮人は」という語り方で表明してしまう。しかし実際には、彼らと同じ目にあっても差別・抑圧と受け止めない「女」や「障害者」もいるのだ。
ぼくは80年代後半、反体制運動を続ける中で、同じ「反体制」のはずのそんな連中と戦うハメになったのだが、ソウルフラワー・ユニオンの2人の語り方も、そうした連中とまったく同じなのだ。

こういう中川的な発想を外山は「大状況左翼」と呼び、それに個人のあり方を重視する「実存左翼」を対置させる。

そして、自分の日常的な違和感や不満から出発して行動する過程でいろんなことを知るというのではなく、「先に言葉を与えてしまう」ことの危険性を指摘する。

外山は、

今回のインタビューの限りでは、ソウルフラワー・ユニオンは「大状況左翼」の道を選択したように思える。ぼくは「実存左翼」の道を選んだ。どちらの選択が正しいのかは、あと数年のうちに明らかになってくると思う。

と書いているが、30年後の現在を見ると、「大状況左翼」はSNSとも連動してLGBT差別反対などの分野で存在感を示しているが、中川が望んでいたようなものなのかどうかは不明である。一方の「実存左翼」はその存在感を一向に示す気配がない。

スライダーズの歌詞は「左翼」ですらない「実存」そのもので、時代を超えた普遍性を持っている。

具体的な歌詞を挙げて説明したいのだが、今はその余裕がない。

少なくとも言えるのは、今はスライダーズの歌詞を「ダサい」と切って捨てるような感性が無条件に肯定される時代ではないということだ。中川にはその自覚が欠けているように見え、それが彼の歌詞の<ダサさ>につながっているような気がする。