NAM (New Associationist Movement)年譜
※吉永剛志「NAM総括」(航思社、2021年)の巻末年表をベースに作成
1941年
1960年
柄谷、東京大学駒場寮でブント(共産主義者同盟)に参加するもその後の分派の過程で離脱。
1978年
1998年
柄谷、秋に尼崎で母を病院に見舞ってバスに乗るとき「交換様式」のアイディアが閃く。
1999年
1.9 シンポジウム「いま批評の場所はどこにあるのか」(新宿紀伊国屋ホール、東浩紀 鎌田哲哉 福田和也 浅田彰 柄谷行人 四方田犬彦)批評空間 Ⅱ‐21
柄谷が唐突に「国家と資本の運動は止まりませんよ!」「目的の国は来ませんよ!」と発言。東は柄谷の横で唖然とした顔をしていた(シンポに参加した吉永剛志の回想)
3月、『トランスクリティーク』最終章(『群像』4月号)
4.25 柄谷行人「資本主義への対抗運動」(アソシエ21設立記念講演)
7月、「世界資本主義からコミュニズムへ」(柄谷、島田雅彦、山城むつみ)批評空間Ⅱ‐22
夏、熊野大学で飛騨五郎ら7人が出会う(「1999年のスピンオフ」)
11月、共同討議 貨幣主体と国家主権者を超えて / 山城むつみ ; 市田良彦 ; 西部忠/批評空間Ⅱ‐23
11.7 「マルクスがわかる現代を考えるために」(アソシエ21関西設立記念講演集会)田畑稔、柄谷、浅田彰、金時鐘、杉村昌昭
11.27 柄谷が300万円のカンパをアソシエ21関西事務局に提案
12月、柄谷、大西巨人「資本・国家・倫理」(「群像」2000年1月号)
12.19 スペースAK事務所開き
2000年
1月、『可能なるコミュニズム』(太田出版)
1月、アソシエーションK立ち上げ
1.10 アソシエ21関西新年会 柄谷・吉田司講演会
2月、『倫理21』(平凡社)
2月、スペースAKにて中上健次講座スタート
2月、「世界資本主義に対抗する思考」柄谷・山城むつみ(「新潮」3月号)
2月、「トランスクリティークとアソシエーション」柄谷・田畑稔(「唯物論研究」71号)
2.27 世話人会がスペースAKで開かれ、空閑明大が「アソシエ21関西事務局の改編とスペースAKの法人設立運営」の議題を提出。ここでスペースAKという名称が正式に確定
3.17 アソシエ21関西とスペースAK内紛にアソシエ東京が仲介に入り、東京で会談が行われる
4月、共同討議 批評と運動 / 柄谷 鎌田哲哉 山城むつみ 浅田彰 批評空間Ⅱ‐25
4月、アソシエ21関西とスペースAK、運営上正式に分離
4.8 アソシエ21第2回年次大会
6月、「NAM結成への提案」ウェブ公開(5月付)
6.13 アソシエ21関西事務局解消
6.17、20、27 スペースAKでNAM結成準備会議
6.30 スペースAKにてNAM設立総会 暫定代表に柄谷、暫定事務局長乾口達司
7.1 スペースAKで柄谷提案文「NAMの原理」をめぐって討議
7.6 暫定拡大センター評議会ML開始(スペースAKとの軋轢の発端)
7.28 東大小森陽一研究室で地域系NAM東京の暫定立ち上げ会議
8.17 評議会MLでのNAM東京立ち上げ報告をスペースAK認めず
8.23 スペースAKがセンター事務局ではない点につき柄谷が整理・調整
9.9 NAM大阪立ち上げ
9.9 関心系教育のML開始
9.25 NAM東京準備会
10.7 柄谷「センター評議会発足に際して」
10.18 NAMウェブサイトに乾口達司「事務局より新たに参加される方々に」
10.29 岡崎乾二郎「ANYTHING」をめぐるシンポジウムの後、NAM参加を表明
11月、『NAM原理』(太田出版)(2001年1月までに2万部を売り上げる)
われわれが開始するNew Associationist Movement(NAM)は、一九世紀以来の社会主義的運動総体の歴史的経験の検証にもとづいている。そのプログラムと組織原則は、次の条項に要約される。これらはいわば「公理」であって、ここからどのような「定理」あるいは具体的な運動を創りあげるかは、諸個人の創意工夫と協業に負う。
■プログラム
(1)NAMは、倫理的―経済的な運動である。カントの言葉をもじっていえば、倫理なき経済はブラインドであり、経済なき倫理は空虚であるがゆえに。(2)NAMは、資本への対抗運動を組織する。それは資本への対抗の場を、流通(消費)過程におく。すなわち、消費者としての労働者の運動を基盤とする。それによって、ボイコットを中心とした資本制経済の中での内在的な闘争と、非資本制的な生産と消費の形態──LETS(地域交換取引制度)と生産・消費協同組合と――を作り出す超出的な闘争を統合する。
(3)NAMは「非暴力的」である。すなわち、国家権力を暴力的に奪取する革命を拒否するだけでなく、議会を通した国家権力の獲得とその行使を志向しない。NAMが目指すのは政治的国家そのものの廃棄である。
(4)NAMは、その組織と運動形態自体において、実現すべきもの(参加的民主主義や多様体的アソシエーション)を体現する。
(5)NAMは、現実の矛盾を止揚する現実的な運動であり、それは現実的な諸前提から生まれる。いいかえれば、それは、情報資本主義的段階への移行がもたらす社会的諸矛盾を、他方でそれがもたらした社会的諸能力によって超えることである。したがって、NAMは歴史的な経験の吟味の上で、未知のものへの創造的な挑戦を目指す。
11.2 柄谷「新加入者への挨拶」
11.6 空閑が退会表明メール(11.9には撤回)
11.25 センター評議会初のオフライン会議(太田出版)東京・大阪の軋轢解消されず
11.26 朝日新聞に『NAM原理』書評掲載「パロディーの姿借り、現代世界に切り込む」(論説副主幹中川謙)
11.26 駒場祭最終日に柄谷・浅田・スガ秀実「21世紀の資本主義」と題したシンポジウム(浅田が寝坊のため欠席、代わりに西部忠が登壇)主催:対抗運動研究会、できたばかりのNAMs(学生)倉数茂が企画。500人以上が参加、200名入れず
11.27 柄谷・浅田・山城むつみ・坂本龍一「『倫理21』と『可能なるコミュニズム』」(紀伊国屋ホール)主催:平凡社と太田出版。450名の満員で300名入れず。即日50名が入会。
12月、柄谷・村上龍「時代閉塞の突破口」(「群像」2001年1月号)
12月、鎌田哲哉「進行中の批評」を『早稲田文学』1月号から連載開始。第1回は「NAMへの自立、NAMからの自立」
12.1 『週刊読書人』で王寺賢太+柄谷行人+三宅芳夫による「二〇世紀・近代・社会主義」の連載始まる(~2001.10.5まで計37回)
12.11 読売新聞夕刊に六段囲みでNAMの記事
12.19~21 毎日新聞で柄谷・坂本龍一対談「闇をやぶる」
12.20 東京新聞夕刊に坂本龍一がNAMに言及した「『教授』ラジカル発言」掲載
12.23 第2回NAM全国集会(エル大阪)800名超満員、運営大混乱
終了後空閑はNAM東京の世話人の打ち上げ参加を拒否。柄谷が高瀬幸途に事務局移転を打診、評議会の異論なしとして31日決定(6か月ごとの輪番制のイメージ)
2001年
1月、センター事務局、東京(太田出版の地下)に移行(事務局長高瀬幸途、事務局長代行落合美砂。~6月)
スペースAKはNAMとの協力関係を完全に解消
1.9 主要データ、書類の引継ぎ。このときも空閑は高瀬の立ち入りを許さず
1.18 地域系大阪新体制
1.18 西部忠が地域通貨プロジェクトチーム募集開始
2月、柄谷フロリダ大学公開講演
2.17 大阪教育大学天王寺キャンパスで第1回ニュースクール研究会
2.19 株式会社批評空間登記(投資事業有限責任組合法に基づく組合設立)
3月、四谷三丁目にNAM東京事務所を構え、毎週のように読書会・学習会・各関心系の顔合わせが行われる
3.30 柄谷がプリンストン大学でトランスクリティークを題材としたワークショップ
4月、『NAM生成』(太田出版)NAM学生の企画、初版1万部発行
4.15 山住勝広主導でニュースクール・プロジェクトチーム立ち上がる
5月、東京大学駒場キャンパス連続シンポジウム(5、12、19、26日)
5.4 柄谷「新加入者の皆さんへ」
私たちは「NAM原理」を除いては、まったく何もないところから始めました。新たな参加者の創意と工夫で、現在に至ったのです。そのことは、過去の記録をご覧になればわかります。ある人にとっては、現在の組織体制は届きがたいほど高い水準にあるように見えるでしょう。しかし、これらは、多くの不慣れな参加者が少しずつ成長してきた結果なので、けっして尻込みしないようにしてください。また、ある人にとっては、それはあまりに幼稚に見えるでしょう。そのような人たちは、積極的に参加して、知恵を貸してください。
5.5 武井昭夫・スガ秀実「学生運動の50年を振り返る」
5.12 小倉英敬「暴力と抵抗―ペルー大使館占拠事件」
5.19 小森陽一「文学と戦争」
5.26 堀田正彦「民衆交易の現在―フィリピンネグロス島からの視座」
6.13 NAMの中だけで循環する地域通貨「nam」からオンライン地域通貨「Q」に名称変更。決済システムWindsの独自開発を提案(穂積一平)
6.16 柄谷・浅田・山住勝・宮地剛シンポ「生成するNAM―その可能性をめぐって」(京都精華大学)
6.30 早稲田大学大隈大講堂シンポジウム(島田雅彦、西部忠、柄谷行人、司会中島一夫)
7月、NAM事務局が京都市左京区迎称寺(通称南無庵)に移転(~12月)事務局長は杉原正浩
事務局には「南無庵」という掛け軸から、いっそ表札まで掲げようという人もいる。知らずに行けば、NAMと気づかずに通り過ぎるかもしれない。ただし、ここに決まったのは偶然で、別にお寺を探したわけではない。事務所探索隊が、毎週末、京都大学の近辺で、家賃の格別に安いところを探しまわったら、こうなっただけなのである。とはいえ、何か「因縁」を感じずにいられない。
7月、批評空間ウェブ創設
7.1 第3回NAM全国集会@東京(一ツ橋ホール)参加者会員126人一般136人
7.5 市民通貨Q重視の改訂版NAM原理が投票により会員に承認される
7.7 「第3期批評空間を創刊する」シンポ(柄谷、岡崎、山城、磯崎新、浅田)
10.5 『トランスクリティーク』(批評空間)
10.14 岡崎らのRAMカタログ編集員会プロジェクト始動(Qの商品カタログ)
11月、「トランスクリティーク読解」(「文學界」12月号)
11.1 NPO法人ニュースクールセンターが始動
11.1 Q規約確定
11.4 大阪大学まちかね祭「始動する地域通貨 Q」パネリスト 柄谷行人 穂積一平 宮地剛
11.15 Qプロジェクトが本格的に始動し、会員募集を開始。NAMはQを義務化することとなり、これを巡ってQプロジェクトチーム内で紛糾が起こる
11.26 Qのソフト開発・規約作成を担当していた穂積一平、宮地剛がNAM退会(賛助会員に移行)
11.28 岡崎乾二郎が賛助会員に移行、Qプロジェクトから辞任。湯本裕和も同時期にNAM及びQプロジェクトを辞める
12.1 西部忠がセンター評議会を辞任しQを優先すると表明。QプロジェクトはNAMから独立した運営主体となる
12.2 第一回TQC (Tokyo Qool Café、国分寺カフェスロー)ゲスト西部忠、辻信一、安部芳裕。
12.9 NAMウェブサイトで柄谷「Qが始まった」公開
人がQに加入する動機は何でもいい。経済的に助かるから、というので十分である。失業したら、Qで仕事を探せばいい。インフレになったら、円ではなく、Qで取引すればよい。Qは資本主義的市場と違うだけでなく、ボランティアとも違っている。Qによれば、各人が各自の利益のために行動するということが、知らないうちに、倫理的な行為になっているのである。
Qにおいて、大事なのは、各人が、自分が何を売れるかを考えることではない。それは難しいし、実は、それは資本制経済での考え方なのだ。Qにおいて必要なのは、自分が、何がほしいか、何をしてほしいかを考えることである。そして、そのようなwantの一覧表を見れば、人は、自分がofferできるものを見つけることができる。さらに、Qにおいて大事なのは、Qを先に貯めてから使うと考えるべきでない、ということだ。まず、必要なものがあれば、それを買うために、ただちにQを発行すればよい。返すのは、そのあとである。利子がないから、返却はいつでもいい。そして、上記の理由によって、Q経済においては、Qを稼ぐ人(offerの人)よりも、むしろ、Qを使う人(wantの人)が尊重されるのである。
12.15 LETS創始者マイケル・リントンが四谷事務所でWinds-qを見学
12.17 尼崎市で柄谷・いとうせいこうの対談イベント「21世紀的なコミュニティ・アソシエーション」でQ宣伝
2002年
1月、事務局が東京に移転(~6月)事務局長は倉数茂
1月、『批評空間』Ⅲ―2の編集後記に柄谷が「911テロなどは将来的には些事にしか見えないだろう…それに対して、今ささやかに見えるQの開始こそ、世界史的事件といえるだろう」と書く(執筆は2001.11.16付)
1.6 柄谷と山住勝広の対談「アソシエーションと新しい学校づくり」
2月、「重力01」発行
3月、東北遠征
3.2、3 第二回TQC(国分寺カフェスロー)立花泰彦らによる演奏
3.2 坂本龍一の地域通貨「code」とQプロジェクトのアソシエーション企画
4月、早稲田カフェs(実質的NAM東京第2事務所)オープン
4.12 神戸ライブハウスBIG APPLEでKobe Qool Café開催
4.14 柄谷、浅田、スガ秀実「21世紀の人文科学をめぐって」(紀伊国屋サザンシアター)
4.18 柄谷「子犬たちへの応答」を批評空間ウェブサイトに投稿
4.28 WindfarmがQ団体口座開設。コーヒー豆を全額Qで購入可能な限定販売行う
5月、西部ススム、スガ秀実、西部忠「ローカルマネーの可能性」(「発言者」6月号)
5.19 批評空間の内藤裕治が癌で死去(享年37)。株式会社批評空間は解散決定(6.1)
5.26 「南無庵」で「Q茶話会」
6月、NAM大阪が地域会費も代表も事務局もない形式の関西ブロックに移行
6.2 第3回TQC(国分寺カフェスロー)
6.12 Q登録申請開始(7.29開設)
6.19 NPOニュースクルールセンターがQ団体口座開設。
6.29 早稲田奉仕園にて第4回NAM総会(籤引きによりこれまでの代表柄谷に代わり農業・消費者運動系代表田中正治が代表、法律系代表朽木水と海外系代表和氣久明が副代表に選出)
7月、『日本精神分析』(文藝春秋)地域通貨について言及
7月、事務所は東京のまま、事務局長が浅輪剛博に交代
7.7 「南無庵」で第2回「Q茶話会」京都の安全農産供給センターがQ団体口座導入
7月前半 高松の有機生産物ネット宅配業者「ちろりん村」がQ導入確約
7.10 柄谷「これからのNAM」(NAMウェブサイト)
これまで、NAMには誰でも登録するだけで加入できた。その結果、まったく活動しない人、NAMを理解しないで勝手に発言する人、応答も投票もしないため何を考えているのか不明な人、たんに情報入手のために入った人、などがかなりの割合を占めている。NAMは、何の活動もしない、応答しない会員に対しても公平に配慮しなければならない。しかし、そのために、万事において決定が遅滞し、事務局など活動的な人たちの負担が重くなった。
今後、こういう事態を避けるために、何もしないしできないがただNAMを支援したいという人たちには、賛助会員になっていただくことにする。
8.5 熊野大学の中上健次死後10年シンポジウムで柄谷Qの大宣伝
8.8 西部忠がQ-hive代表辞任表明、新代表に宮地剛(11日承認)
8.16 「南無庵」で第3回「Q市」
8.20 「第3期批評空間の習慣と批評空間社の解散に向けて」(批評空間ウェブサイト)
8.22 北海道栗山町で地域通貨国際会議(宮地参加)
8.29 京都、南無庵で会議。柄谷と西部の決裂
9.1 西部忠がQ代表復帰
9.29 柄谷がNAM規約委員会でQ放棄を主張。新しい市民通貨を作ると宣言
10.1 穂積一平がQ副代表辞任
10.5 宮地剛がQ副代表辞任
10.8 西部忠がQ代表辞任
10.14 柄谷が名古屋のフリースペース「風の広場」での原祐人(柄谷祐人)やNAM会員・非会員との懇親会でQ放棄と新地域通貨を明言
10.15~17 柄谷祐人、後藤学、福西広和がQにおける3者間架空高額取引
(9.27時点で取引総額1459万7570Qが一挙に総額4億7579万3726Qに跳ね上がる)
10.21 柄谷がNAMウェブサイトに「Qは終わった」という投稿をする
10.23 「Qは終わった」が削除されたことに抗議して柄谷がNAM退会をメールで表明
10.27 代表団が柄谷宅を訪問、柄谷がNAM抜本的改革委員会の設置を提案
11.1 西部忠の依頼により鎌田哲哉がQ監査委員に立候補
11.3 抜本的改革委員会始動(田中正治、朽木水、和氣久明、岡崎乾二郎、湯本裕和、王寺賢太、杉原正浩、関井光男、浅輪剛博)
11.14 柄谷「Qは始まらなかった」をNAMウェブサイトに公表(前月の「Qは終わった」を改稿)
11.15 NAM抜本改革案が評議会に提出され、19日に決定
11.19 原祐人らの抗議を受け、評議会の議事進行を務めていた吉永剛志が評議会を離脱(外部掲示板にMLのメールが流出したことにより原が柄谷の息子であることが暴露され迷惑を被ったとの由)
11.23 原祐人が神戸で市民通貨のシステムを発表
11.25 NAM評議会で田中正治代表が評議会の解散、新評議会設立を言明
11.28 Qの会費返還請求、契約解除をQユーザーMLで通達
11.29 西部忠「まだはじまっていないQのために」
11.29 柄谷「Q退会のために」
12.3 田中代表がNAM解散を提案
12.7 柄谷・原祐人が市民通貨Lの説明会開催(早稲田大学)
12.7~11 全国各地でNAM解散説明会。参加者は東京20名、名古屋7-8名、京都10名、福岡(人数不明)、高松6名
12.11 柄谷「FA宣言」
どんなに今のNAMの組織機構や運営の仕方をいじくっても、プロジェクトも運動も、怒るはずがない。それゆえ、NAMを一度解散し、会員が自由な個人(free agent)として、あらためてアソシエーションを形成することから始めるほかない。
12.22 NAM会員投票によりNAM解散決議。賛成57,反対3で可決。
12.29 朽木水が「Qは二度死ななければならない」を投稿
12.30 吉永剛志がQ退会
2003年
1.15 NAM解散岡山説明会で原祐人が新市民通貨実施見送りを表明
1.31 NAM組織機構が解消
2月、学生ML継続始動
4月、「重力02」
7.12 柄谷・原祐人が市民通貨研究発表会。直後に原は市民通貨研究から離脱
8月、FAウェブサイト始動
9月、八重洲ブックセンターにて資産管理委員会との非公式会談。
11月、鎌田哲哉がQのウェブサイトに「京都オフライン会議議事録・西部柄谷論争の公開」を発表
2004年
柄谷、『文學界』2004年11月号「来るべきアソシエーショニズム」で以下の発言
僕は運動家じゃないので、二、三年で誰か実践的なリーダーが出てきたら引っ込もうと思っていた。
NAMがうまくいかなかった理由は、まずMLに依存しすぎたこと。海外にいることが多く、本当にやるつもりだったら日本にいないといけないのに自分の場所に都合のいいように運動を起こしたためにその弊害を自分が受けることになった。
もう一つの理由は、運動経験のある未知の人を組織すべきだったのに僕の読者を集めちゃった。ネットでやるとどうしてもそうなる。それで柄谷ファンクラブみたいになってしまった(笑)。しかしファンクラブというのは現実には仲が悪い上にむしろ柄谷批判することが真のファンだと思っているからその中で軋轢が生じる。
そうなるとちょっとほかの人たちは割り込めないような感じになって来る。実力のある人、自立した人が入って来てもそういう雰囲気がいやになったと思う。
2005年
2月、鎌田哲哉「LEFT ALONE 構想と批判」
2014年
9月、柄谷が「NAMを語る」を『社会運動』414号~417号まで連載
2017年
12月、柄谷「資本の『力』とそれを超える『力』―NAM再考」(「現代思想」2018年1月号)
(NAM解散には)いろんな理由がありますが、何といっても、私がオルガナイザーとして不適格な人間だったからだと思います。そもそも日本から離れていましたし。同時に私は、それは私の理論的認識に欠陥があったからだと考えています。
2021年
2月、柄谷行人『ニュー・アソシエーショニスト宣言』(作品社)
ある意味で、私がやったことは、大阪でいうとボンボンの道楽仕事のようなものです。とはいえ、たぶん東京にいたら、こんな無茶なことを始めていなかったでしょうね。
2月、吉永剛志『NAM総括 運動の未来のために』(航思社)