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リア王

最近シェイクスピアにハマっている。沙翁の醍醐味はやはり舞台にあるので一度舞台を見たいと思ったら、事務所のすぐ近くに「文学座」があって、丁度『リア王』がかかっているのを発見。しかし当日券が中々取れない。折角の機会なので見たいのだが。

 

山崎努が『俳優のノート』という本で、『リア王』の役作りに取り組んだときのことを詳しく綴っているのを読んで面白かった。

 

シェイクスピアは実質15年位の間に20本以上の主要作品を書き上げた。当時の大衆の好みに合わせ、下ネタやダジャレも満載で、同時にパトロン貴族たちの好みにも合うように高尚で優雅な表現も散りばめた。一方でエリザベス女王という独裁者の顔色も窺わないといけなかった。信仰上の理由から文字通り八つ裂きの拷問を受けた同時代人たちが多数いた。色んな制約の中で、最低の卑俗さから最高の崇高さに至る人間感情の全てを劇の中にぶち込んだ。

 

四代悲劇と言われる『ハムレット』、『オセロ』、『リア王』、『マクベス』はいずれも芸術家のデーモニッシュな衝動を含んでいる。「いいか、人間の世界とは、こういうものなのだ。これがありのままの世界の姿だ」というしつこいくらいの声が聞こえてくるようだ。

 

シェイクスピアは、人間の絶望の底に手を触れて、そこで掴んだものを観客の前に突き放して提示する。「最悪だと言えるうちは、まだ最悪じゃない」(『リア王』でのエドガーの台詞)。

 

シェイクスピアの悲劇作品を貫いているのは、本当の最悪、真の虚無を味わった人間だけが持つ透徹した眼差しだ。そして当然そこには笑いもある。リア王の狂気は凄惨さと滑稽さを同時に含んでいる。リア王の傍に仕える道化(Fool)は、観客の誰もが感じているリア王の愚かさを笑い飛ばし、洒落のめす。惚けかかった頑迷な年寄りの愚行。しかしそれが国王のものであるだけに、それをズバリと馬鹿に出来るのはアウトサイダーである道化だけだ。他の者たちは、気づいてはいても婉曲に指摘することしかできない。あるいはその愚かさを利用して、娘たちのようにリア王を追放する。

 

娘たちの名前がまたいい。ゴネリルとリーガン。末娘のコーディリアは、その名前の響きが何となく『ハムレット』のオフィーリアを連想させる。一見弱々しく思えるが、コーディリアはリア王の頑固さを受け継いでいる。言いたくないお世辞は決して言わない。気持ち悪い温もりの中で安住するよりは、吹き曝しの外の世界に出ていくことを選ぶ。劇の最後で、リアとコーディリアは遂に和解する。このときもコーディリアは沈黙している。最初の沈黙はリアの怒りを買ったが、最後の沈黙はリアの愛と絶唱を喚起した。二人の精神は、この世の幸福に安住できるほど凡庸ではなかったので、その死は必然であった。

 

後年、この結末が余りに救いがないというので、コーディリアは死なず、エドガーと結ばれ、リアは満足な余生を送るという結末に書き換えた劇が百年以上も上演されていたという。大半の人間が「ありのままの世界」に直面することに耐えられないことの証左である。しかしシェイクスピアはそれも笑って許しただろう。彼は人間という物を知り尽くしていた。なぜなら全世界は彼自身に他ならなかったから。