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白痴

「この小説(『白痴』)は、その価値を知る者にとっては、何千ものダイヤモンドと同じ価値がある」 ―レフ・トルストイ

トルストイは当然知ったうえで言っているのだが、この小説には数千のダイヤモンド以上の価値があり、それは比較になり得ない。

10万ルーブルを火の中に投げ込んだナスターシャ・フィリポヴナはそのことを知っている。

30年前と同じように、ムイシュキンが百姓女マリイについて語る場面では声を上げて泣いた。

ラストの、殺人者と狂人が聖処女の躯を挟んで寝ころびながら語り合う場面の、限りなく重く澄んだ情緒を味わうためには、忙しない現代社会生活を3日くらい犠牲にして読み通す価値はあるだろう。

罪と罰』を読み返した時には、ラスコリーニコフよりもスヴィドリガイロフに惹きつけられたのだが、『白痴』はなんといってもナスターシャ・フィリポヴナである。

スヴィドリガイロフが『罪と罰』でそうであったのと同じ意味で、人間としての<段位>が明らかに違う。彼らに比べれば、他の登場人物がいかに薄っぺらで単層な存在に見えることか。

以下は個人的な強引な読みだと思うが、「本物の文学作品とは多様な解釈を許容するものである」(『俺語録』より。究極はシェイクスピアの『ハムレット』だ)から許してちょ、ということで。

幼児虐待、わけても少女に対する性的虐待と言うテーマを半ば強迫神経症的に追及するドストエフスキーにとって、少女のときに孤児となり、地主貴族のトーツキイの庇護を受け、囲い込まれ、性的な意味でも<教育>されたナスターシャ・フィリポヴナ(以下、N・Pと記す)は、『罪と罰』でスヴィドリガイロフが弄び、自殺した少女(たち)が自殺しなかった場合の「なれの果て」の姿だといえる。

ナスターシャは、トーツキイの慰み者になった自分を恥じ、「何度も何度も池に身を投げて死んでしまおうかと思った」とムイシュキンに告白している。

第一篇のクライマックス、N・Pの夜会の場面における彼女の言動は、えげつないほどの輝きを見せていて、まさに「狂ったダイヤモンド」である。

自分のためのパーティなのに、何か手持無沙汰で退屈そうなN・P。 お調子者のフェルデシチェンコが提案したパーティを盛り上げるための「今までで一番恥ずべき行為をみんなの前でカミングアウトする」ゲームに興じながら、頃合を見計らって、このえげつないセリフを放つ。

「ねえ、公爵。わたしのパトロンたちがわたしを若い男に売り飛ばそうとしてるんですけど、わたし結婚した方がいいかしら? あなたの言うとおりにいたしますわ」

ムイシュキンはトチ狂って、思わずN・Pにプロポーズしてしまう。

(「だ、だれと?」と聞き返すところからの、誠実そのものの公爵のセリフにはグッと来ざるを得ない)

そこにロゴージンが手下のガラの悪い若い衆をゾロゾロと引き連れて入ってくる。

(この完全な場違い感が最高)

ロゴージンは必死になってかき集めてきた10万ルーブルをテーブルにドン!と置いて、「これでどうだ!」と一世一代の見得を切る。

それでもムイシュキン公爵は求婚をあきらめない。

「もし僕たちが貧乏なら、僕は働いて稼ぎます」とまで言い放つ。その心に偽りはない。が、ムイシュキンは、実際には莫大な遺産(150万ルーブル以上)を相続するという手紙を受け取ったばかりであったことが発覚。

それを聞いたN・Pは、

「じゃ、もう公爵夫人だ!」

と彼女は嘲笑するようにひとりごとを言った。

(このくだりも最高としか言いようがない… そして、そこからの…)

長椅子から立ち上がり、呆然としているロゴージンに、「行きましょう! ロゴージン、進め!」と檄を飛ばし、10万ルーブルを火の中に投げ入れて、反グレ連中とドヤドヤと立ち去っていく(結局焼けていなかったのだが)。

(このカッコよさで読書快感はマックスに達する)

日本人は、恥辱を与えた相手の目の前で腹切りをするそうだ。それと同じことを、N・Pは彼女を弄び、恥辱を与えた男たちの前でやってみせたのである―

もちろんN・Pはこの時点で公爵にベタ惚れしてるのだ。だってN・Pの頬には「大きな涙のしずくが光っていた」し、 そして極めつけのこのセリフ。

「さよなら、公爵。この世ではじめて人間に会いましたわ!」

公爵は泣きながら後を追いかける。

(当然読者である俺も号泣)

いやあ、このあたりの息を呑むようなドライブ感を表現するためには、全文まるまる引用するしかないのだが。 この第一篇の終わりまでに何度か霊的エクスタシーに達したという人でないと、ドストエフスキーの世界にとことん付き合うのは無理だろう。