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消去

トーマス・ベルンハルトというオーストリアの作家の『消去』という小説をようやく読み終えました。

面白かったけれど、しんどかった。しんどかったけど、面白かった。

面白い小説というのは、ドストエフスキーなんかその典型ですが、読み始めるとあっというまにぐいぐい引き込まれて、止められなくなるので、仕事と仕事の合間のようなスキマ時間に読むのは不向きなんですよね。

一番いいのは、移動中の乗り物の中。自分なんかは、喫茶店やファミレスのような場所では逆にあまり集中できないタイプなので、やっぱり電車の中とかがいいです。もし丸一日時間があれば(半日でもいいけど)、山手線をグルグル回りながら読書し続けるとか最高ですよね。でも途中でお年寄りが乗ってきて目の前に立ったりすると気になって集中できなくなったりもするのが玉にキズといったところです。

さて、そんなトーマス・ドルビーの最高傑作とも言われている『消去』ですが、どんな話かというと、ムーラウという主人公はオーストリアのヴォルフスエックという村の裕福な家の二男坊で、家族と折りが会わず、因習的で窮屈な家を飛び出して今はローマで学者をしています。

まだ働き盛りの両親に、ヨハネスという兄がひとり、ツェツェーリアとアマーリアという二人の妹がいます。妹はふたりともなかなか結婚せず独り身でしたが、ツェツェーリアの方が結婚することになり、結婚式に出席するために久しぶりに地元(ヴォルフスエック)に帰って、いろんな思いを抱えながらローマに戻ってきたムーラウ。ところがなんと戻ってきた二日後に、両親と兄が亡くなったという電報を受け取ることになります。

小説の前半は、この電報を受け取ってから、地元に再び出発するまでの間、ムーラウのモノローグ(独白)が改行も段落分けもなしに延々と続くのです。その中でいろいろな事実が明らかになりますが、まあ言っちゃえばどこの家族の中でもありそうな確執の延長線上にあるものといってよく、ムーラウの出自にはそんなに特殊な事情や環境があるわけでもありません。敢えて言えば、裕福でオーストリア地元の名士だった父親は戦後も親ナチスの立場をとり続けナチ関係者を家に匿ったりしているなど、ムーラウが嫌悪感を抱く理由が政治的問題も絡めて語られているといったところがやや特殊と言えば言えるでしょうか。

家族は皆ムーラウの極端な色眼鏡を通じて語られるため、本当にムーラウが言うほど酷い人たちなのかどうかは分かりませんが、世俗を嫌い精神的傾向を持つ人間から見て非常に関係を持ちにくいタイプの人々であったことは確かなようです。

いわば俗物を絵にかいたようなの家族の集団の中で、二男のムーラウだけが特殊な存在であったため、両親や兄や妹からは疎んじられ、馬鹿にされ、ほとんど虐待に近いような躾を受けていました。

そんなムーラウの心の支えになっていたのが、ゲオルグ叔父の存在で、ムーラウは叔父が哲学や芸術など精神的価値への手ほどきをしてくれたことに感謝しています。主人公がほぼ肯定的な印象しか持たない珍しい存在です。

大人になってからは、スパドリーニというカトリック聖職者がムーラウをローマに導き、ガンベッティという愛弟子にも引き合わせてくれました。ムーラウにとってスパドリーニは尊敬し憧れる存在ですが、同時にスパドリーニは母親の愛人でもあり、彼の持つ偽善的な側面をムーラウは鋭く見抜き批判しています。

小説の後半は、ムーラウが葬儀に出席(喪主として主宰)するためにヴォルフスエックに赴き、そこで展開される種々の人間ドラマ(といっても専らムーラウの個人的体験)が、これもムーラウ自身のモノローグによって、改行無し段落無しで延々と語られます。客観的に何が行われたのかもすべてモノローグの中で語られますが、モノローグの中で客観世界と主観世界についての語りを敢えて抽出して分けるとすれば、たぶん1:9くらいで、世界の9割はムーラウ自身の主観に染め上げられています。

しかしこの小説が傑作として世界的に評価されていることでも分かるとおり、ムーラウの極私的観点は同時に普遍的な共感を呼び起こす内実を備えています。まあ言っちゃえば、「季節のない街に生まれ、風のない丘に育ち、夢のない家を出て、愛のない人に会う」ような青少年時代を過ごした人なら、思わずニンマリしたり膝を叩いてしまうような「あるある」ネタの宝庫といってよいかもしれません。

そして訳者の解説にも書いてあるように、小説全体が呪詛に満ちているといってよいトーンで書かれているにもかかわらず、重苦しさや息苦しさは不思議と感じられず、ユーモアと透明な光が常に降り注がれていることが分かります。僕はこれを読みながらショーペンハウアーの厭世哲学を常に想起していました。ショーペンハウアーもまた世界の暗愚さを苦々しく語りながらも軽妙な若々しいユーモアに満ちています。この二律背反した感覚はやはりドイツ文学ならではといえるのでありましょうか。日本語でも中原昌也の小説なんかはこれに通じるものがあるように思います。

この「軽み」がどこから来るのか、個人的には、「何もかもどうでもいい」と現実世界の一切を見切っている、執着を離れた心的態度がその鍵ではないかという気がしました。

主人公は一見、世界を憎悪し、家族への恨みに粘着しているようでいて、実はすべての感情や思考をサラサラと水のように流し続けていて、その中身にはまったく捉われていない(もちろん小説としては捉われている風に描かれていますが)。刻々と襲ってくる暗い思い出やうんざりする感情といったものを、自らの中で明確に認識し、味わい、瞬刻ごとに落としている(ムーラウがそうしているというよりは読者に与える効果がそのような物であるという意味)。この延々と続くモノローグの記録は、この浄化のための手段ではないかとさえ思える。つまりムーラウが直面しなければならないストレスに満ちた個人的体験を乗り切るためにはこのように絶え間ないモノローグによって自らの体験を「消去」し続けるような文体を選択するしかないという必然性が伝わってくる。

だから読み終えたときの読書体験に、決してじめじめした後味の悪さは残らない。ここまで書き切るのはガラクタに満ちた濁流の中を傷一つ負わず泳ぎ切るような達人の芸といったものが必要で、ドストエフスキーがそうであるように、ベルンハルトもまた小説の奥義を会得した作家のみが持ちうる筆さばきを物にしているという印象を受けます。

最後に翻訳の素晴らしさを特筆すべきでしょう。どんなにすぐれた小説も、外国語で書かれたものである限り、翻訳によるバイアスは避けられませんが、この『消去』の訳者はベルンハルトの文体、リズム、感情といったものを完全に理解し咀嚼したうえで日本語に変換しているから、まったく違和感を覚えず読み切ることができます。

ちなみにドストエフスキーの翻訳は、米川正夫さんも工藤精一郎さんも江川卓さんもいずれも素晴らしくて好きです。私なんかが言うのは大変おこがましいですが、この『消去』の池田信雄氏の訳もそれと同じくらい素晴らしいと思いました。