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大阪に住んでいた子供の頃、部屋の本棚に親の本も並んでいて、その中に赤い函に入った日本文学全集があり、中高生の頃に太宰や芥川、谷崎などをそれで読んだ(今調べたら新潮社のだった)。

全巻揃っていたわけではなく、覚えているのは、上に挙げた三人のほか、森鴎外横光利一林芙美子川端康成などだ。多少熱心に読んだのは太宰くらいで、あとはあまり記憶にも残っていない。

親の蔵書としてはほかに松本清張高木彬光などの推理小説司馬遼太郎海音寺潮五郎歴史小説集などがあったが、それらはほとんど読まなかった。

谷崎は「蓼食う虫」と「卍」を読んだ記憶がある。どちらも面白かったが、のめり込むほど引き付けられはしなかった。

谷崎と言えば官能小説、そして東灘区に住んでいた神戸の祖父のイメージが被った。小説は正直よく分らなかった。

小説にのめり込んだのは大学に行く直前にドストエフスキーに出会ってからで、元々文学少年の素質はないし、文章を書くのが好きだったり上手だったりしたわけでもない。通っていた中学高校(一貫制)で毎年文集を発行していたが、自分は文系で成績もよかったがあまり採用された記憶がない。文学的な感性というものに欠けていたようだ。

文章の才能や文学的センスというのはやはり存在するもので、小説家になるような人には当然それが備わっているし、一流の、文豪と呼ばれる人であればなおさらである。その代表が谷崎潤一郎のような作家であろう。

小説家になれるのは、内容がなんであれ、面白い文章を書ける人である。物語を作る能力も大事だが、文章自体の魅力がないといけない。特に純文学というジャンルでは、文体が何よりも重視される。単に文章がうまいというだけではなく、その作家の体臭が沁み込んだような特徴のある文章が書けないといけない。もちろん文章の才能がそれほどなくても立派な作品を残す作家も沢山いる。ハッキリ言えば小島信夫などはその典型ではないか。まああれはあれで特殊な才能と言えるだろう。大江健三郎に文章の才能があるか、と言われれば、谷崎とは違う意味で、やはりあるのだと思うし、好みはともかくとして、村上春樹にも文章の才能はあるに違いない。しかし文体論という話になってくると迷宮入りするので打ち切った方がいいだろう。