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庄野潤三と小島信夫

庄野潤三『貝がらと海の音』などを読むと、これこそが「うるわしき日々」だよなあ、という感じがする。現実に存在する『うるわしき日々』という小島信夫の小説は、言葉の通常の意味において、タイトルと中身に著しいギャップがあると言わざるを得ない。

老年期に入った作家とその妻、そして家族の生活を描いた長編小説という点では共通するが、両者の間には何という違いがあることか。

同じ年に芥川賞を受賞し(プールサイド小景アメリカン・スクール」)、共にロックフェラー財団の招きでアメリカに一年留学し、帰国後に生涯の代表作といえる作品を書いた(静物抱擁家族)この二人の作家が、その後に歩んだ道のりのコントラストには、単なる資質の違いというものを越えた、ある種の運命的なものを感じる。

両者とも、初期の作品では結婚生活の危機が描かれている。

庄野の妻は結婚三年目、長女を産んだ一年後に睡眠薬で自殺を図る(未遂)。小島は、「抱擁家族」が私小説に近いとすれば、妻がアメリカ人と浮気して(夫の方も別の女性と浮気していた)、その後乳がんで亡くなる。

これらの体験が後に、庄野潤三の代表作とされる静物と、小島信夫の代表作抱擁家族としてそれぞれ作品化された。もっとも、「静物」においてはこの体験は小説世界の背景として暗示されるにとどまっており、「抱擁家族」では全体的にややカリカチュアライズされ、実験的に描かれているから、いわゆる純粋に私小説的な作品ではない。

庄野と小島の二人は、それぞれにこの代表作を完成させることで、個人的な危機と共に作家としての危機を乗り越えたといえるのではないか。それは大江健三郎「個人的な体験」を書いて長男の出産にまつわる危機を乗り越えたことにも似ている。

そして両者に共通するのは、いわば作品の中から社会的なテーマを取り除くことで代表作を完成させたという点である。

庄野は、「プールサイド小景」の中では巧みに描かれる現代サラリーマンの苦悩という社会問題を「静物」においては完全に消去し、その記述を純粋に家庭内の出来事に限定している。

小島は、「アメリカン・スクール」にあった対米従属というテーマを、「抱擁家族」では家庭内における問題(アメリカ兵と妻の浮気)の中に取り込むことでギリギリ社会性を保っているが、その後の作品においてこのテーマを掘り下げることはなかった。

要するに、作家の目を社会全体から家庭内の問題へと向けることで小説世界を切り開いていった。これと対照的な動きとして、松本清張らによる社会派推理小説の台頭があった。前者の傾向は次の「内向の世代」によってさらに推し進められた。

よくわからないが、戦後派の野間宏が目指した「全体小説」の構想が大きく分裂してこの二つの流れになったといえるのだろうか。

その後の家庭人生において、庄野と小島は対照的な道を歩むことになった。

庄野は、夫婦の危機を乗り越え、三人の子供たち、そしてその孫たちへと続く家族の発展とその生活模様を調和的に作品化した。長女と二人の息子はスクスクと成長し、結婚し、孫たちが生まれ、作家とその妻と暖かく交流する模様が描かれる。「静物」をさらに円熟させてもう一つの代表作「夕べの雲」を書き、その小説世界からかつての危機の痕跡は完全に消え去っている。

これに対し、小島は妻を亡くし、そのすぐ後に若い妻と再婚する。これが前妻との間の息子と娘のいる家庭に微妙な緊張と不和をもたらすことになる。娘は結婚し、親元を遠く離れて生活するようになるが、息子は、結婚し子供を設けたものの離婚、アルコール中毒となって家族から見放され、小島とその妻の尽力により何とか入院させるも、作家夫婦にのしかかる大きな重荷となる。息子は入退院を繰り返した挙句、アルコール中毒患者のための病院に収容され、そこで亡くなる。その頃には妻の認知症が深刻化し、やがて妻も施設に入る。晩年の小島の小説(「うるわしき日々」から「残光」までの一連の作品)は、認知症の妻と、同居する娘夫婦たちと関わりながら懸命に執筆活動を続ける作家の姿が赤裸々に描かれている。その筆致は、調和的というよりは乱調で、文体も構成も破綻一歩手前の実験性に満ちている。

面白いのは、小島の小説は、悲惨な境遇を描きながらも、どこか「突き抜けた透明さ」を感じさせ、庄野の小説は、そこで描かれる穏やかさに満ちた生活の中にどこか「突き抜けた透明さ」があるということだ。この「どこか突き抜けた透明さ」は、どんな環境にも左右されない作家の透徹した<眼>の存在がもたらすものであり、これが彼らの作品を身辺雑記でもホームドラマでもない「文学」として成立させている。

小林秀雄は、志賀直哉の文学について語る中で、この<眼>についてこう述べている。

慧眼の出来る事はせいぜい私の虚言を見抜く位が関の山である。
私に恐ろしいのは決して見ようとはしないで見ている眼である。
物を見るのに、どんな角度から眺めるかという事を必要としない眼、吾々がその眼の視点の自由度を定める事が出来ない態 (てい)の眼である。志賀氏の全作の底に光る眼はそういう眼なのである。

恐らく氏にとっては、見ようともしない処を、覚えようともしないでまざまざと覚えていたに過ぎない。これは驚くべき事であるが、一層重要な事は、氏の眼が見ようとしないで見ているばかりでなく、見ようとすれば無駄なものを見てしまうという事を心得ているという事だ。氏の視点の自由度は、氏の資質という一自然によってあやまつ事なく定められるのだ。氏にとって対象は、表現されるために氏の意識によって改変されるべきものとして現れるのではない。氏の眺める諸風景が表現そのものなのである。
(『作家の顔』新潮文庫、「志賀直哉論」)

庄野潤三小島信夫は文学をめぐって何度か対談しているが、いずれも七十年以前のもので、お互いの九十年代以降の作品をどう見ていたのか、興味がある。