INSTANT KARMA

We All Shine On

悲しみの遺言状

中原昌也の『悲しみの遺言状』(『文學界』2016年11月号)を読む。

作品中に「コンビニ」について連呼されている箇所があり、数えてみたらわずか1頁足らずの中に「コンビニ」という単語が実に15回も登場する。

これは先日芥川賞を受賞した村田沙耶香の「コンビニ人間」を意識したものではないだろうかと読みながら思っていた。中原自身は芥川賞にノミネートされながら結局受賞できず、そればかりか選考委員から事実上黙殺されたという苦い過去があるので、自ずと村田女史に対するジェラシーめいたものに駆られたのではないかと推察することも可能だ。当然ながらコンビニに対して好意的に描かれているわけでもなく、ひたすらコンビニという存在に対する呪詛めいた描写に終始している。

野蛮なまでのコンビニ連呼の次に来るのは、「食べられる大人のおもちゃ」という架空の食品(?)についての詳細な説明であり、これはおそらく「食べられるペットボトル」という、近年話題となっている製品に着想を得たものではないか、と疑われた。私がこれを知ったのは娘の学校の文化祭における「化学クラブ」の展示発表においてであり、中々面白いものが在るのだなあ、と印象に残っていたのだ。たぶん中原昌也もどこかでこの「食べられるペットボトル」について見聞し、それを「大人のおもちゃ」と組み合わせてみたのであろう。中々ユニークな発想であり、感銘を受けた。

「悲しみの遺言状」というタイトルの由来は、作品の最後になって明らかになるという種明かしの仕掛けである。一種の叙述トリックともいえるこの手法は、中原が同時期に発表した短編『わたしは花を買いにいく』(『文藝』2016冬号)においても実験的に用いられており、中原昌也の今後の文体を占う上で見逃せない技法となりうる要素を秘めている。

登場人物は主人公である「わたし」と、知人である「小林」という男、小林が連れてきた「佐枝子」という女、そして「特に誰かの子供というわけではない」5歳くらいの男の子。だが男の子は誰からも相手にされず、店内を動き回る判別不可能な「光体」の残像にまで存在を希薄化させ、最終的にはそれすらカメラの故障が原因となって生じたノイズにすぎないとされる。

中原の作品はすべて特定の心象風景のスケッチであり、宮沢賢治の「春と修羅」と同じ構造で描かれている。尤もそこに描かれるのは宮沢のような透明で純粋な光の世界ではなく、濁って歪曲したグレーで不透明な世界である。

一見支離滅裂なモノローグのような文章の羅列が読んでいて不思議と心地よいのは何故か。それが詩(リズムと形式の和合)であるからだ。「しりめつれつ」という漢字がどうしても思い出せず、手元にあるスマホで打ちこんでみた。そういえばこんな感じだった。こんな比較的単純な四字熟語が出てこないなんてどうかしているのではないか? もう初老期痴呆の症状が出かかっているのだろうかとの不安が心をよぎる。そんな不安でさえ暖かく包み込んでくれる荒涼とした世界がここにある気がしている。