僕はそれに接すると無条件に涙腺が刺激されるものがいくつかあって、一つはベートーベンの第九交響曲、二つは宮沢賢治の童話、三つには村山聖に関するもの。
以下は将棋ペンクラブ会報2000年秋号、将棋ペンクラブ大賞受賞の大崎善生さんの「第12回将棋ペンクラブ大賞受賞のことば」より。
昨年の正月、つまり1999年の正月、突然に私は「パイロット・フィッシュ」という題名の一編の小説を書いた。書いたというよりも書けたのである。20歳くらいの頃から頭の中を蠢いているプロットは数え切れないほどあった。20代、30代と何度もチャレンジしたのだが、ついに一度も書き上げるどころか小説の体裁を整えることもできなかった。
41歳になったばかりの正月に、突然裏庭に舞い降りてきた宇宙船のように、私は1週間で100枚の小説を書き上げることができた。
プロットは面白いようにつながり、ストーリーは自分の意識の外でコロコロと転がった。それは何ともいえない不思議な体験だった。20年間できなかったことが1週間でできてしまったのである。
その年の5月に「聖の青春」を書き始めた。編集者から提示された枚数は450枚。生まれて初めての長編だったが、私はきっと書き上げられるだろうと妙な自信があった。村山聖という超一級の素材である。そこに森信雄六段を始めとする愉快で純粋な人間達が絡んでくるのだから、ということももちろんあったが、それよりも何よりも私の心の支えとなったのは「パイロット・フィッシュ」というちっぽけな短編だった。物語を起こし展開し逆転し終結する。その一通りのことを収束できたことが自分自身の励みとなっていた。
すべて書き終えてみると原稿は700枚にも達していた。午前1時から午前5時まで、静まり返った夜の片隅で、半年間に亘って毎日毎日私は書き続けた。それは思えば村山と二人で遊んでいるようなフワフワとした楽しく幸せな時間だった。
それでも物語がどうしようもなく立ち止まることもあった。そんな時には「パイロット・フィッシュ」を読み直しそして何度も書き直した。この小説のテーマは一度出会ってしまった人間は二度と永久に別れることができないのだというようなものである。「聖の青春」を書き進めているうちに「パイロットフィッシュ」もそういう風にどんどん姿を変えていった。
「聖の青春」の最後の一行を書き終えた日の午前5時、急に涙が溢れそしてそれは止まらなくなってしまった。冷蔵庫から缶ビールを取り出し飲みながら私は泣いた。
村山のわずか29年のはかない人生をちゃんと書けたのだろうかという不安、これでよかったのだろうかという後悔のようなもの、献身的なまでに執筆に協力してくれた村山家や森さんへの感謝の念、様々な感情が嵐のように交錯し溢れ返ってどうすることもできなかった。
窓からは異様に赤い朝焼けが見えた。