こうして人々は生きるためにこの都会へ集まって来るのだが、僕にはそれがここで死ぬためのように考えられる。
リルケ『マルテの手記』
「まだ絶望ではない」と大きな声で言ってみるのはいいことである。もう一度「まだ絶望ではない」と。
しかしそれが役に立つだろうか?
僕は一日中歩きまわった。
小春日和の中、外苑のいちょう並木は今日が見ごろだった。
18日のいちょう祭りは諸般の事情により中止になったというポスターが貼られていた。外苑前広場でつい先日あのような悲劇があったのだから当然だろうとSNSを見たら書いてあった。
大勢の人びとがスマホでいちょうの撮影会にいそしんでいた。あたかも世界の一部を切りとってデジタル信号情報の中に落とし込むことによってそれを永遠に所有しうるかのように。
しかし、それは重要なことだろうか。たとえそれが重要なことであっても、最も重要なことは、僕の見た情景が僕にとって何を意味したのかということではないだろうか。
青山通りを歩きながら、軽い眩暈がして地面に座り込みそうになった。朝から何も食べていなく空腹のせいで貧血になったのだと思われた。びっしょりと汗をかいて、血の中になにかひどく大きなかたまりが入り込んで、それが血管を押しひろげながら移動しているかのように、しびれるような痛みが全身をまわっていた。そして、空気がさっきからなくなって、吐き出した空気を再び吸い込み、肺がそれを受け付けないのを感じた。
ぐったりとしながら小腹を充たせそうな店を探したが適当な場所がなく、ようやく渋谷の近くまで来て牛丼屋を見つけた。慌てて脂身だらけの肉が載った丼をかきこみながら、ようやく救われたと感じた。
この世にあることはすばらしい。
いちょうの木々よ、すでに久しい以前からお前たちはわたしに意義深いのだ、
噴水の管にも似てお前たちのしなやかな枝枝は、
樹液を下へ、上へと送り、それは殆ど醒めることなしに、眠りの中から
甘美な事業の幸福へおどりいる。
さながら神があの白鳥に転身したように。
愛する人たちよ、どこにも世界は存在すまい、内部に存在するほかは。
われわれの生は刻々に変化して過ぎてゆく、そして外部はつねに痩せ細って消え去るのだ。