INSTANT KARMA

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この世界の片隅に(3)

※今回はネタバレ全開なので未見の方は要注意のこと

この映画は今や口コミやSNSで火がついて大変なことになっているみたいだ。

まあそれだけの力を宿した作品であることは間違いないだろう。

こうの史代による原作漫画を読み、改めて思ったことなど。

この作品を語る人の多くが、「戦時下の庶民の暮らしを淡々とユーモアを交えて描くことで、敢えて声高に反戦を叫ばなくとも強い戦争反対のメッセージになっている」という感想を述べている一方で、「反戦のメッセージが明確ではなく、むしろ戦争に向かう時代の流れに無自覚に流されていく大衆の有り様を肯定する内容になっている」という批判も少数ながら見られる気がする。

僕自身、実は後者の見方に共感する部分もある。

映画を見ながら違和感を覚えた箇所の一つが、海岸線をスケッチしていたすずが特高警察に引っ張られて家族の前で「厳重注意」を受ける場面だ。

特高が帰った後で、すずが「不注意でした、すみません」と謝ると、家族が爆笑するのである。すずのような人畜無害な女に特高がスパイ活動の疑いをかけたことが可笑しくて仕方がないといった様子だ。

特高警察といえば治安維持法による苛烈な弾圧、すなわち凄惨な拷問により小林多喜二はじめ多数の思想犯を獄死させた恐怖政治の象徴であり、ナチスゲシュタポソ連KGBと同列のものというイメージが染み付いてしまっているために、自分はこの場面を素直に笑えなかった(笑われて一人拗ねるすずは可愛かったが)。

しかし年配者が多かった映画館では、この場面で笑いが起こっていたから、あの時代を体験した人々にとってこのネタは「あり」ということなのだろうか、という疑問もわいた。しかし、この場面を見て笑った人々のすべてが、治安維持法下における戦争反対者への残忍な弾圧の実態を認識しているかと言えばそうとも言えないのではないかという気もした。それとも特高警察=不当逮捕拘留➡︎拷問➡︎獄死と条件反射のように連想すること自体が「サヨ」ということなのだろうか。

要するに、このネタが「あり」ということで本当にいいのかどうか、映画を見ている自分には分からなかった、というのが正直なところだった。同時に、少なくともこの映画に反戦映画という単純なレッテルを貼ることができないということは明らかなように思われた。

政治的、イデオロギー的視点を離れたところで戦時下の庶民の生活をひたすら忠実に描写するという態度が、この映画がここまで爆発的に受容されている要因の一つだと思う。そしてそれが本当にいいことなのかどうか、今の自分には判断がつきかねる、ということだけは今書いておきたかった(映画自体の是非の話ではなく、このような状況を全面的に肯定的にとらえるべきかどうかということ)。

余計なお世話だろうが、この作品を海外に持って行った場合にこの問題はけっこう大事なことになってくるのではないかという気がする。

※11月25日追記

記事の中で特高警察と書いたが、映画に出てきたのは憲兵だったようだ(片渕監督によるトークショーでのコメントより)。

両者の違いは、特高が一般人の反体制思想の持主の取締りのため(いわゆる思想警察)だったのに対し、憲兵は軍人の取締りに当たる。すずの夫周作は海軍軍法会議議事(書記官)だったので、憲兵がすずを知っていてその動向を見張っていたことはありうる。憲兵は港の様子を把握するために実際に段々畑のあたりをウロウロしていて、憲兵同士は遠くから手旗信号でやり取りしていたということまで調べた上で、片渕監督は敢えてあの場面を挿入したのだ。

実際には憲兵特高のように一般人の思想弾圧を行っており、市井のアナキスト大杉栄を殺害したのは憲兵であった。原作及び映画であの場面をギャグとして処理したのは、当時の一般大衆にとっては憲兵のイメージは戦後の人間や当時のインテリ層の持っているそれとは異なっていたと言いたかったのかもしれない。いずれにしても深く考えさせられる場面ではある。

※※11月26日追記

やはりあの憲兵の場面は、戦後の我々(自分)の目で見るから違和感を感じるのであって、当時の一般市民の感覚はあれで正しかったのではないかと思った。

共産主義者に対する拷問とか思想弾圧の実態を誰もが知るようになるのは戦後になってからで、当時は一部のインテリ以外は大本営発表による完全な情報操作の下で国内外の情勢の真相など知る由もなかったのだろう。

だからすずの一家は<正義のため>と信じて懸命に生きていたのだし、周作は<お国のために散っていく>水原のためにすずを差し出したのかもしれない。そこまで洗脳されていたのだ、と今になれば思うが、経済や社会の真実についてメディアによって覆い隠されている今の日本人だって似たようなものかもしれない。