INSTANT KARMA

We All Shine On

サバルタンは語ることができるか

金融貴族が法律をだし、国家行政を指導し、組織された公的権力の全部を思うままに行使し、既成事実と新聞によって世論を支配していたので、上は宮廷から下はあいまい飲み屋にいたるまでのあらゆる領域に、同じ身売り、同じ恥知らずの詐欺、生産によらず既存の他人の富をごまかしとって金持ちになろうとする同じ病的欲望が、くりかえされた。とくにブルジョア社会の最上層では、ブルジョア法律そのものに絶えず抵触しながらも、不健康で放埓な欲望を、無制限に貫く傾向が滔々として生じた。そこでは、賭博から生じた富が、その欲望充足を求めるのは、その性質上、自然のことであり、享楽は淫蕩となり、金と汚物と血がまじりあって流れるのである。金融貴族は、その営利の方法でも享楽でも、ブルジョア社会の上層に再生したルンペン・プロレタリアート以外のなにものでもない。

カール・マルクス『フランスにおける階級闘争』(中原稔生訳)

日本で左翼革命が起こらないのは日本がやはり神の国だからで、神はどうしても天皇陛下を通して働くことになっているから、フランスやロシアのようにはならない。日本で革命を起こしたければ右翼にならねばならぬ。戦前に出口王仁三郎というのが右翼革命をやろうとして失敗した。226事件よりも大本事件の方が日本にとっては重大事件である。連合赤軍オウム真理教も外国の観念に頼って革命をやろうとしたから失敗する運命にあった。

そんなことをまた考えながらフラフラ歩いていたら気が付くと西武秩父の駅にいた。駅の隣にスーパー銭湯みたいな温泉ができていて、ひとつのレジャーランドのようで見回す限り皆観光旅行気分で一杯ひっかけながら何やらワイワイ騒いでいる。

そういうことには巻き込まれたくない性分だから、つい余計な口を挟んで、「この会場の中で、わたしを選んで殴ろうとする奴は誰だ」と叫ぶと、大理石のポールがある一角でダボシャツや黒い背広のヤクザめいた人間が五人ほど退屈そうに身体を揺すっていた。

そういうときには何があっても黙っているしかない。やり過ごす能力が大人と大人になり切れないアダルトチルドレンの境界でもある。ふとした偶然で自殺した人のスマホを手に入れ、何気なくでたらめにパスワードを入れたらあっけなく入れた。中にあったのはエグいエロ漫画本の電子書籍で、ダウンロードした日付を見たら自殺したちょうどその日の推定時刻の直前であった。

とてもご両親にお伝えできないと思いながら画面をスクロールしていると、自殺の方法を事細かに解説したHPがお気に入りに登録されていた。彼が採ったまさにその方法が図解入りで解説されていた。何とも言えない気分になった。

自殺というのはよほどのことがない限り犬死でしかない。だが例外もある。たとえば、第二次大本事件における控訴審の審理中に、出口王仁三郎は高野裁判長にこんな禅問答をしかけた。

「もし人が虎の穴に落ちたとき、そこに飢えた大きな虎がいたとしたらどうするか」

裁判長は答えに窮したことを誤魔化して逆に王仁三郎にその問いを返した。

そこで王仁三郎はこう答えたという。

「私だったら、すすんで虎に食われてやります。逃げようとすれば喰われるでしょう。刃向っていっても、じっとしていても同じことです。どっちにしても助からないのなら、こちらから喰われてやるのです」

「・・・・・・」(裁判長)

「逃げようと思うと恐怖と恨みだけが残る。しかし、自分の方から喰われてやるなら、そこには愛と誇りが残ります」

ここでいう虎とは、狭い意味で言えば裁判長であるが、大きく取れば当時の日本国家、もっといえば世界戦争という人類のカルマそのものである。同様に虎の穴に落ちた人というのは狭く取れば王仁三郎自身であるが、大きく言えば逃れられない運命に囚われた人類一般をさす。

精神力が尽きて絶望から自殺することとは違って、虎に自分を食わせてやることは厳密にいえば自殺とは言えないのかもしれない。それは則天去私と言って晩年の漱石が理想としたまま果たせずに亡くなった境地のことだ。

敢えて言おう、自殺することは人間の生来の権利の一つであると。

だがショウペンハウエルが言うとおり、自殺はこの悲哀の世界からの真実の救済の代わりに、単なる仮象的な救済を差し出すことによって、最高の倫理的目標への到達に反抗することになるのである。これが自殺に反対すべき唯一の適切な倫理的根拠である。

純粋に病的な深刻な憂慮によって自殺へと駆られる人は、何らの克己も必要とせず、自殺のための心構えすら必要ではない。酷い肉体的苦悩が他の一切の心配事をどうでもよくするように、深刻な精神的苦悩は肉体的苦悩に対して我々を無感覚にするからである。

自殺は一種の実験であるともいえる。すなわち、現存在と人間の認識とが死によってどのような変容を被るかという、人間が自然に向かって投げかけてそれに対する解答を強要する類の試みである。だがこの実験は不完全である、なぜなら肝心の解答をしりうべきはずの意識の同一性をこの実験じたいが殺してしまうのであるから。

もっとも、我々の真実の本質は死によって破壊されえないものであるという点については、ショウペンハウエルの同名の小論を読めば明らかになるであろう。