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正しい日 間違えた日

濱口竜介監督が女優のイザベル・ユペールと対談している動画の中で、ホン・サンス監督の話題が出ていて、以前から気になっていたので、アマゾンプライムで見れる作品を見てみた。

2017年の「それから」イザベル・ユペールが出演したクレアのカメラというのを続けてみたが、いまいちピンと来なかった。

それから2015年の「正しい日 間違えた日」という作品を見、これがすごくよかった。なのでこの映画について書きたい。

主人公ハム・チョンス(チョン・ジェヨン)は映画監督で、いわゆる芸術系のインテリ学生が好むような作品を撮っている、けっこう有名な人物である。

ホン・サンス監督自身をモデルにしていると思われ、このあたり私小説的である。彼の作風は純文学的で日本の私小説を思わせる(「それから」という映画のタイトルは夏目漱石から取ったもの)。

さて、ハム監督は自身の作品の上映会と特別講義に招かれ、水原(スウォン)という都市にやってくる。予定より一日早く着いてしまい、時間をつぶそうと観光名所の寺院に向かうが、その入り口ですれ違った若い女性ヒジョン(キム・ミニ)の姿を見て一目惚れしてしまう。

寺院の中で声をかけ、有名な監督の立場を利用して(?)コーヒー店に誘う。ヒジョンは敏感な体質でコーヒーが飲めない。ハム監督の映画は見たことはないが、周りの人たちが高く評価しているので名前はよく知っている。自分はもともとモデルの仕事をしていたがそこに未来が見出せず、今は自分のアトリエで絵を描くのを日課にしている、と身の上話をする。

この自然な感じの会話がけっこう続くのだが、キム・ミニの横顔と表情がとにかくかわいい。日本の引退した女優・桜井幸子によく似ている。ハム監督が一目ぼれするのも無理はない。実際、ホン・サンス監督はこの作品をきっかけにキム・ミニと付き合うようになり、その後の作品に続けざまに主演させている。公私混同もいいところだが、よくある話ではある。妻帯者であるところもハム監督と同じである。

コーヒー店のあとは二人でヒジョンのアトリエに行き、彼女の描いている絵をいっぱしに批評したりする。でもハムは絵なんか見ておらずひたすらヒジョンの横顔を見つめている。

アトリエを出て、ハムはヒジョンを寿司屋に誘い、一緒に酒を酌み交わす。ハムはピッチを上げてだらしなく酔っていくが、ヒジョンも中々いける口である。酒が入ってそれまでおとなしかったヒジョンも陽気になり、盛り上がって、二人の雰囲気がすごくいい感じになる。

盛り上がりきったところで、ヒジョンはおもむろに、自分には友達が一人もいない、彼氏はいたし、たまに会う人もいるけど、友達ではない。私にはどうして友達がいないんでしょうか、と悩み相談モードに入る。困惑した監督に、そんな目で私を見ないで下さいと言い放つヒジョン。気まずくなり外でタバコを吸うハムに、ヒジョンはこれから先輩の家でパーティに誘われているから一緒に行くかと声をかける。

「詩人と農夫」という店でヒジョンと先輩(女性二人、男性一人)と酒席を囲む。女の先輩から女グセが悪いことをバラされ、既婚者であることが分かった時、ヒジョンの表情が俄かに曇り、険しくなる。

ハムは酔って寝てしまったヒジョンに声をかけるが、「帰ってください」とつれない態度。仕方なく先に帰るハム。翌日の上映会も乱暴な講義をしてグダグダになってしまう。

会場を去るハム監督に声をかける昨夜の女性先輩。彼女の書いた本を渡される。スタッフの女性から、また会いたいと言われ抱きつかれる。照れながら去っていくハム。

ここでいったん映画は区切られ、後半となるのだが、それはなんと前半の反復である。

同じようにハムがヒジョンに声をかけ、コーヒー店に誘い、アトリエに行き、寿司屋に入り・・・

しかしその細部は微妙に異なっている。結末もまったく異なる。

前半と後半に同じ話のヴァリエーションで反復させるという構成は、アピチャッポン「世紀の光」でも見た。こういうのが今の流行なのだろうか。

ホン・サンス監督は他の作品でも時系列をズラしたり同じ構図を反復させたりすることで日常の中に微妙な違和感や非日常性をもちこむという手法を使っている。

前衛的といえなくもないが、この「正しい日 間違えた日」の中では、このやり方が、ドラマ的な面白さを損なうことなく、むしろ面白さを引き出している。

本作はロカルノ国際映画祭に出品され、グランプリにあたる金豹賞を受賞。この時、日本の映画監督である濱口竜介も『ハッピーアワー』を携えて参加しており、映画祭にて本作を鑑賞。そこでホン・サンスのことを「真の現代の巨匠」だと思ったという。(Wikipediaより)

本作を鑑賞して一番の感想はでもやはり、「キム・ミニはホン・サンスにとって小津にとっての原節子なのだな」ということ。小津が「晩春」と「麦秋」で原節子を最高の美しさでフィルムに収めたような愛着が感じられた。そういう意味では純愛の記録でもある(現実には純愛というより泥沼だったのではないかとも思われるが、少なくともこの映画を撮っている間はそうだったろう)。

高い評価に納得。これは中毒性が高い。