INSTANT KARMA

We All Shine On

Drive My Car (ダメ出し編)

もういいかげんしつこいのでこれで終わりにしますが、ネットでのレビューなど見ていると絶賛の評価も多い一方で当然おもしろくなかったとかネガティブな評価もある。

それらを単に価値観の違いと切って捨てるのでは「正しく傷つく」ことを回避してコミュニケーションを否定していることにもなりかねないので、この映画の弱点や欠点についても考えてみたい。

まず、女性があたかも巫女のように神託めいた物語(ポエム)を吐き出したりするという設定がちょっと・・・という点。要は女性を神秘的な存在として描きすぎるのは男の勝手な視点ではないのか。

このことともつながるが、男性のトラウマ解消のために女を都合よく利用しすぎじゃないか、という批判もあった。

村上春樹原作だから仕方がないという部分もあるが、みさきにせよ韓国手話の女性にせよ、家福を癒すための存在として若い女性が使われているのが一種のご都合主義ではないかという視点は、ドストエフスキーあたりまで遡って近代文学そのもの問題にもなりうる。

それとも関わるが、みさきの母親をめぐるトラウマ設定は余計だったのでは? わざわざ北海道まで行って長いこと抱き合うシーンは必要か? 家福の抱える問題は実存的で観念的だが、もっと生活レベルで貧困や生存の問題を抱えているみさきの深刻な状況は描かれず最後のよく分からないシーンで曖昧に処理するのはどうなのか? といった指摘もあった。

だが、ジェンダー的視点や貧困の問題といったよりアクチュアルで社会的な問題を十分に扱えていない、という批判は、〈この映画〉に対する批判としては的外れと言わざるを得ない。

映画監督の井筒某が、この映画は笑えない、と批判していたが、それは単に見る映画を間違えている、というだけの話で、その種類の批判である。

頷ける批判としては、僕自身、最後の北海道のくだりはどうだったのか、という疑問は僕も持った。雪崩の下敷きになった家の前に佇んだみさきが、母親が二重人格者だったという告白をするのだが、それはちょっと不自然さを感じさせる部分だった。

最初にも書いたが、この映画の最も奇跡的で美しいシーンは、野外練習のエレーナとソーニャの部分だと思う。この奇跡と美は最後のソーニャとワーニャのシーンでも表されているが、この二つのシーンの有機的な関連性がより表現されていれば、この映画そのものが単なる傑作を超えて映画史上のひとつの奇跡になったと思う。これは抽象的な言い方であり、具体的にどうすればいいのかはわからない。そうしたことを妄想するのも僕にとっての映画の楽しみ方の一つである。