INSTANT KARMA

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Oops I pushed by luck

河瀨直美監督の東京2020オリンピック映画の音楽を藤井風が引き受けたことについて、やはりファンの反応は二分されているようだ。

歴史的な大仕事を任されたことに対して大歓迎の声がある一方、オリンピックという国家プロジェクト、しかもとりわけ批判の大きかった東京2020オリンピックの記録映画という「国策映画」に関わることへの違和感や、色々問題を取り沙汰されている河瀨直美監督とつながることへの不信感も表明されている。

僕自身は河瀨直美監督の映画は見たことがなく、いくつかの報道を通じてあまりよいイメージを持っていない。しかし、今売り出し中の若いミュージシャンが、自国のオリンピック記録映画の音楽をやらせてもらえるというオファーを断る理由がまったく見つからない。ましてこの映画に関しては河瀨監督自身から熱心なアプローチがあったということなので、なおさら断るという選択肢はなかったと思う。

それに、映画そのものの出来や、それが政治的にどんな思惑があろうと、音楽の価値とは無関係である。ナチスの党大会にワーグナーの音楽が使われたとしてもワーグナーの音楽の価値とは関係がないのと同じだ(極端すぎる例でふさわしくないかもしれないが)。また別の譬えでいえば、映画的には駄作とされる松本人志監督の「さや侍」のサウンドトラックについて、ジャズ・ミュージシャンの菊地成孔清水靖晃の作曲した音楽の素晴らしさを絶賛している。だから藤井風は、ただ素晴らしい音楽を提供すればそれで十分な仕事をしたといえる。

しかしながら(例によって曲がりくねった文章で申し訳ないが)、現在の藤井風については、一抹の懸念のようなものが頭をよぎるのを拭えないのも事実だ。

「藤井風テレビ」を見て、その懸念がだんだん大きくなってきた。

盲目的なファンは、オリンピック音楽の発表のときと同じように大絶賛しているが、僕のようなひねくれたファンにとっては、最近の動きはどうも藤井風という才能が「利用されている」ような妙なものを感じるのである。

過去に僕がこのブログで贔屓してきた何人かのタレントも、爆発的に売れた後にメディアで消費され、苦しい時期を過ごすという経験をしてきた。それは本人のせいというよりも周囲の人々の思惑に乗せられてしまった結果であったように思う。藤井風にもそういう時期が訪れるのかもしれない。

以上、こじらせファンの独り言でした。