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つげ先生お元気そうで嬉しい。もう終わっちゃったけど。

またやってくれねえかな。

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これはちょっとした考察というか雑感ですが、山田花子が好きでガロ系の漫画も読んでいたに違いない西村賢太つげ義春について全く言及しなかったのは、つげを評価するインテリ層の評論家たちに反発を感じていたからじゃないかというのが個人的仮説。

つげが愛読していた川崎長太郎西村賢太も愛読していた。

つげの漫画は私小説的で、あの車谷長吉も愛読していたという。そこらへんも西村が避けた理由の一つかもしれない。

まあ誰が何と言おうと、ぼくはつげ漫画が好きだ。

おばけ煙突

初茸がり

海辺の叙景

紅い花

長八の宿

ほんやら洞のべんさん

タイトルを並べただけで涙が出てくる。

 

ついでに昔書いた文章も貼り付けておこう。

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『もっきり屋のチエ』――つげ義春はるき悦巳


はるき悦巳は、マンガ家を志すにあたって影響を受けた数少ない先達としてつげ義春の名前を挙げている。はるきだけではなく、つげから影響を受けたマンガ家は多い。だが、それは主に精神的、間接的な影響であって、実際の作品にその影響が直接に出ているケースは比較的少ないように思われる。

 

はるき悦巳についてもまた同じことが言える。彼の最初期の作品(『政・トラぶっとん音頭』や『舌町物語』など)における建物や風景の描写などを除いて、絵についてもストーリーについてもつげの直接の影響を感じ取ることは難しい。しかし、たとえば初期の『じゃりン子チエ』を劇画として見た場合、つげの影響は見て取れるような気がする。

 

ここでは、そのあたりについて少し考察してみたい。

 

★  ★  ★

 

つげ義春については、すでに本格的な評論がいくつも書かれており、彼の作品を巡る解釈や分析には事欠かない。実際、彼の作品は読者に強い分析欲を起こさせる素材でもある。それだけ文学色が濃いという言い方もできるだろう。

 

はるきはつげの作品を読んで、「マンガでこんなことも書いてええんかと思った」と述べている。これははるきのみならず、従来のマンガの概念を打ち壊したつげの作品に触れた読者の多くが抱いた感想であろう。

 

ここはつげ義春について論じる場所ではないので、手短にまとめるが、初期の貸本屋時代を除けば、つげの作品ははっきりといくつかのタイプに分けられる。

 

まず、「ねじ式」や「ヨシボーの犯罪」、「必殺するめ固め」などに代表される、夢や意識下の世界を描いたような不条理でシュールな作品。一般につげ義春独自の世界として広く認知されているのがこのタイプの作品だろう。

 

次に、「ほんやら洞のべんさん」、「長八の宿」など、いわゆる「旅もの」と呼ばれる作品。これにはほのぼのとした中にも表現としての深みを感じさせる佳作が多く、一つのジャンルとして確立された世界を持っている。

 

そして、最初の二つのタイプを融合させたような、凄みのある作品群。これには、「ゲンセンカン主人」や「やなぎや主人」などがあり、より幻想的な情緒感をたたえた「沼」「紅い花」「もっりき屋の少女」なども広く言えばこれに含んでよいだろう。

 

最後に、「日の戯れ」「退屈な部屋」など、日常を描いたもの、さらに「やもり」「海へ」など自伝的なものを含めた、私小説的な作品がある。「無能の人」もこれに含んでよいだろう。

その各々が、かなり違うタッチで描かれているため、つげ義春について何の知識もない人が読んだとしたら、同一人物の作品とはにわかに信じがたいほどである。

 

★  ★  ★

 

さて、これらのつげの作品の中から、あえてはるき悦巳、それも特に『じゃりン子チエ』との接点を探ろうとするなら、まず検討の対象となるべき作品は、『紅い花』と『もっきり屋の少女』ではなかろうか。

 

これはどちらも、一人で客相手の飲食店を経営する少女が主役で、しかも少女の用いる方言が独特の味わいを与えている点に、形式的には『チエ』との共通点を見出すことが可能である。

 

『紅い花』のキクチサヨコは、父親が働こうとしないために、山の中で旅人相手の茶菓子店をやっていて、学校も休みがちだ。シンデンのマサジはキクチサヨコをいじめるいけすかない同級生だが、サヨコに宿題を持ってきてくれる。マサジはサヨコの父親のこともよく知っていて、内心ではサヨコの境遇に同情している。

 

『もっきり屋の少女』のコバヤシチヨジは、幼い頃に自分を売った両親のすぐそばで暮らしながら、町外れの居酒屋で客商売をしている。自分の境遇を諦観しながらも、徒に運命を嘆くことなく、街の女の子が履くような赤い靴が欲しいなどとたわいもないことを真剣に考えている。赤い靴を買ってやるとうそぶく客に身体を弄ばれながらも、たいして抵抗もせず、罪悪感もなく、淡々とその日その日を生きるチヨジ。

 

つげ作品全体を読むさいの鍵でもある、これらの少女たちに漂う深い官能性は、はるきの描く作品世界には決して見られないものだ。

 

物語における官能性の不在という点では、はるき作品は、彼が影響を受けたことを認めているもう一人の作家ちばてつやの作品に通じるものがある。

 

つげとはるきの作品世界に共通するのは、そのリリシズムだろう。

 

『紅い花』の最後のコマ、キクチサヨコを背負って山道を下りながら「眠れや…」と語りかけるマサジと、それに「うん」と答えるサヨコ。

漫画家なら誰もが書きたいと思うに違いない、叙情性に溢れた古典的なラストシーンだ。

 

これと同じ情感をたたえているシーンが、はるき悦巳の作品にもあった。

彼の代表作の一つ、『ガチャバイ』のラストだ。

 

★  ★  ★

 

『もっきり屋の少女』との関係では、はるき悦巳氏による次の発言を取り上げたい。

「…ただ、チエはそういう状況にあってもコンプレックスを持たずに、克服するような強さは持っていますね。コンプレックスを持たないというより知らんのかな。…日本一不幸ということばをつかったりしているけど、結局、自分のおかれてる状況が不幸だということも知らん子どもたちだと思います。」

灰谷健次郎との対談「オオカミがじゃがいも食べて」より)

 

この発言を読んだとき、私は正直言って軽いショックを受けた。

 

「自分が不幸な境遇にあることの自覚がない」という点で、チエとコバヤシチヨジは同じ立場にいる。

 

言われてみれば確かにそのとおりなのだが、はるき氏がそうした認識をはっきりと持ちながら「チエ」を描いていたということが驚きだったのだ。

 

ふだんは作品の持つユーモアとペーソスの下に隠されてしまっているが、初期の「チエ」に漂うある種の「暗さ」は否定できない事実だ。

 

この「暗さ」をめぐっては、読者の間でもさまざまな憶測が巡らされていて、評論家の呉智英氏などは、それはチエの家族が社会的被差別者だからだとまで断言している。

 

私は、呉氏のは明らかに無茶な解釈だと思うが、『チエ』という作品がそういう見方すら可能にする要素をある時期まで孕んでいたことは認める。

 

『もっきり屋の少女』を読んで、明るい作品だと思う人はおそらくいないだろう。しかし暗い作品かと言われるとそうも言い切れない。それは最後の主人公(作者の代弁者)のセリフ「がんばれチヨジ がんばれチヨジ」をどう解釈するかにかかってくる。

 

『チエ』は言うまでもなく、決して暗い作品ではない。しかし、どこかに「暗さ」は漂っている。とりわけ、作品の連載当初に、なんとなく漂っているその「暗さ」の部分は『もっきり屋の少女』と共有しているものではないか、と思う。

 

それについて作者のはるき氏自身が明確に指摘したのが、先の言葉だ。

 

コバヤシチヨジは、自分の境遇を「みじめです」と言いながらも、それが何を意味するかに気づいていない。(それが主人公の青年にはやりきれなく腹立たしい。)チエもまた、自分のことを「日本一不幸な少女」と言いながらも、その不幸がほんとうは何なのかにおそらくは気づいていない。そして、最大の不幸はまさにこのことなのだ。

 

『チエ』の「暗さ」は巻を追うごとにどんどん薄まっていき、やがて完全に払拭されてしまう。その時点で、『チエ』とつげ義春の接点は消えたといってよいと思う。

 

それは、『チエ』が「劇画」から「マンガ」になったことを意味してもいた。