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Johnny The Criminal

※今日の記事は読者に不快感を与える表現を含んでいるので、ジャニー喜多川による性犯罪の件によほど興味がある人以外は読まないことを勧めます。

 

 

 

以下、日刊ゲンダイの記事のコピペ。公共性があると思うので全文引用する。

 

国民栄誉賞作曲家の次男がジャニー喜多川氏からの性被害を告白 「8歳の時に自宅部屋で…」

 

【独占インタビュー】

 服部吉次さん(俳優・音楽家/78歳)

 今年3月に英公共放送BBCが報じたジャニーズ事務所の創業者・故ジャニー喜多川氏の性加害問題のドキュメンタリーを契機に、元ジャニーズJrでシンガー・ソングライターとして活動するカウアン・オカモト氏(27)が実名でジャニー氏を告発するなど、その衝撃は日本中に広がっている。今回、俳優で音楽家の服部吉次氏が小学生の時に受けたジャニー氏からの性被害を告白する。吉次氏は「別れのブルース」「東京ブギウギ」「銀座カンカン娘」などの和製ポップスで知られる国民栄誉賞受賞作曲家・服部良一の次男。長兄は作曲家の故・服部克久。(独占インタビュー前後編の前編です)

 

──なぜ、今過去の性被害を公表する気になったのでしょうか。

 

「ひとつは、カウアン・オカモト氏ら実名で告発した方たちに対する敬意です。ジャニーの悪行にはかつて(2000年代に)司法の明確な裁きが下ったんです。にもかかわらず、それから30年経った今に至るも、主要なメディアはジャニーズ事務所の数々の非道の兆候を明確に指摘することをためらい、忖度し、温存する側に回ってしまった。

 なぜか。この国ではむきだしの怒りを相手にぶつけることを避けてしまう。人々はこの世の歪みに気づかないふりをする。でも、少しずつではあるけれども、勇気ある告発は増え続け、海外からの声も追い風になり『おかしい』という声は大きくなってきた。それだけに行動する人に対するバッシングも大きくなる。今回こそ、真正面からその圧力と向き合おう、この機会を失うと、もう二度と発言の機会は失われてしまうかもしれない。そんなやむにやまれない思いで、今回の告白に踏み切りました

 

■父の米国巡業の縁で姉弟が服部家に

 

 ──被害にあったのはいつ頃でしょうか。

 

「まず、ジャニーと私の父・良一の出会いから話します。1950年に、父が歌手の笠置シヅ子さんと『ブギ海を渡る』を持ってアメリカ巡業ツアーをしたのです。8月11日にハワイ公演、9月1日から3日間はロサンゼルス公演でした。会場は高野山ホールという高野山真言宗の直営ホールで、当時の高野山真言宗米国別院の第3代主監が喜多川諦道氏。ジャニー喜多川の父です。

 諦道氏は『ボーイスカウト第379隊』の結成に尽力したり、プロ野球球団『ゴールドスター』のマネジャーも務めていたという多芸多才な方だと、今回ネットで知りました。ロスの日系社会で声望が高かったそうです。息子のジャニーは当時19歳。姉のメリーと共にコンサート会場を駆け回り、大人顔負けの接待役を発揮し、父や笠置さん、服部富子(叔母で『満州娘』の大ヒットで知られる歌手)、スタッフたちのマスコット的存在だったそうです」

 

 ──服部家とはその縁で?

 

「同じ年の6月に勃発した朝鮮戦争で、ジャニーはアメリカ国民として徴兵され、従軍するのですが、ある日、突然、彼が新宿区若松町の家にカーキ色の軍服姿で現れました。パパ(良一)と叔母は、それを見るなり『ヒーボー(ジャニー氏の本名・擴からこう呼んでいた)! ウワー、大きくなって』と歓声をあげて出迎えました。

 それから、何回か若松町に遊びに来ました。今でも忘れられない光景があります。玄関にうずくまり、軍靴をゆっくりと編み上げている彼の姿です。家族はそれを囲んで一言も言わずじっと見つめていました。それから彼は立ち上がり、私たちに別れの挨拶をするでなく、『あー、行きたくないなー』と一言。

 今思うと、2世差別の残る戦場へ向かう彼の姿を中国戦線での慰問経験をもつパパと叔母は、どんな思いで見ていたのだろうと思います。ジャニーは朝鮮戦争から帰還し、その翌年日本に戻り、除隊後には米大使館軍事顧問団に勤務したといいます。それで再び、服部家に出入りするようになったのです」

 

──どんな印象でしたか?

 

「ジャニーはワシントンハイツ(代々木にあった進駐軍宿舎)に住んでいて、時々、お土産をもって服部家を訪ねてくるんです。ハーシーのチョコレートやハンバーガー、フライドポテト、アイスクリームなど。PX(基地内の売店)で手に入れたものでしょう。当時の日本は皆貧しいですからね、ハーシーのチョコなんて高根の花でした。うちは比較的裕福とはいっても、進駐軍の物資の豊かさは別世界です。

 ある時、冷蔵庫が運ばれてきたのでびっくりしました。父が彼に頼んで買ったものでしょうけど、当時は氷を置いて冷やす簡易冷蔵庫しかない時代です。冷蔵庫・洗濯機・テレビが三種の神器と呼ばれて主婦が憧れたのは1960年代の初めですからね」

 

「遅くなったから泊まっていこうかな」

  
 ──ジャニー氏の性癖を知ったのはいつですか?

 

私は当時8歳。小学2年生ですから、チョコレートやお菓子を山のように持ってきてくれて、一緒に遊んでくれるヒーボー(ジャニー氏)は優しいお兄さんですし、大好きでした。ある日、いつものようにふらりとやってきて、確か“キャナスター”というトランプゲームなどで遊んでくれたヒーボーが、『もう遅くなったから今日は泊まっていこうかな』と言うんです。母も、『そうね、どうぞ泊まっていって』と言う。

 ヒーボーが『どこに寝ればいいかな?』と聞くと、『よっちゃんの部屋がいいんじゃない』と母。『よっちゃん』というのは私の愛称です。

 それでヒーボーが私の部屋に泊まることになりました。2階が子供部屋で4部屋あるうちの2つは兄と私、1つは姉3人が寝るようになっていて、一つは布団部屋みたいになっていたと思います。

 

パジャマに着替えた私が布団に入ると、彼が『肩揉んであげる』と言うんです。私も子供のくせに肩こり性なので、言う通りうつぶせになると、ヒーボーの手が虫みたいに体中をはいまわるので『なんか変だな』と思ったけど、私にとっては優しいお兄さんですからね。

 そのうち、下半身をまさぐってきて、パンツをめくって股間のあたりに手を入れてくるんです。指でさすられているうちに生温かいものに包まれたと思った瞬間、今まで知らない突き抜けるような快感があって。それが初めての射精でした。何がなんだかわからず、びっくりしていると、今度は肛門をいじり始め、舌がはい回ってくる。そのうち舌とは違う硬いものが入ってくる感触がするけど、さすがに痛いので身をひねったら、諦めたようで、指で自分を慰めている。それを見て怖いというよりも、8歳だから何がなんだかわからない状態です」

 

■姉からは「汚らわしい」と言われ…

 

 ──母親には話さなかった? 

 

「その翌朝、起きたらすでにヒーボーの姿はない。何も知らない姉が笑顔で『どうだった? 昨夜は大好きなお兄ちゃんと一緒に寝て楽しかった?』と聞くので、『うん、ヒーボーは僕の体を揉んでくれるんだけど、だんだん、手がパンツの中に入ってきて、おちんちん触るんだよ。おちんちんって汚いよね。ぼく、なんだか気持ち悪くて……』と言ったら、姉が、『やめなさいよ、そんな話。汚らわしい』とすごい剣幕で言う。

 姉がそんなに怒るのは昨夜のことはやっぱりいけないことだったんだと思って……母親に話すことはできないし、まして普段からあまり会話が少ない父親に話すなんて無理。そこで思考停止しちゃったんです。

 ジャニーがしたことがオーラルセックスだというのは大人になってわかるんですが、変なことをされたという気持ちとそれを自分が受け入れた後ろめたさが子ども心にも複雑な心理状態になるんですね。

 

アイスやチョコをくれて、性的な快感を味わわせるということで、こちらに後ろめたさを持たせ、その一方で加害者としてその快楽を使った口封じをしているわけです。性に関する問題は『支配と奉仕』の二重構造があるのだと思います。

でも、それで終わったわけではなかったんです」(後編につづく)

 

▽服部吉次(はっとり・よしつぐ) 本名・服部良次。1944年生まれ。父は作曲家・服部良一劇団黒テントの創立メンバー。「翼を燃やす天使たちの舞踏」「上海バンスキング」「阿部定の犬」ほか多数の舞台に出演。妻は女優の石井くに子。次男はハンブルク・バレエ団で東洋人初のソリストで、バンクーバー五輪の開会式に出演したバレエダンサー・服部有吉。兄は作曲家・服部克久。甥は作曲家・服部隆之。隆之の娘はバイオリニストの服部百音。

(取材・文=山田勝仁)

 

以下コメント:

 

服部吉次が被害に遭ったのは8歳のときだから1952年ころ。ジャニー喜多川は21歳である。手慣れたやり口から考えて、このころには既にジャニーは常習的にさまざまな男児に強姦を行っていたと考えられる。

ここでジャニーの父親が高野山真言宗米国別院の第3代主監・喜多川諦道であったことに注目したい。

高野山と言えば、江戸時代では、男色の隠語が「高野山」や「高野心経」であったほどで、一説には開祖・空海が男色を広めたとも伝えられている。空海が留学していた9世紀前期の中国(唐)では、男色が盛んであり、男娼も存在したといわれる。

江戸時代に国学者儒学者たちは仏教を厳しく批判したが、その理由の一つに僧の男色があったと言われている。

仏教の世界で「稚児」は僧の身辺の世話をする者である。

「岩波仏教辞典」によれば、

乳児・幼児からやや成長した児童までを指す称。古来、神霊のよりつきやすいものとして神事に奉仕し、祭礼などに美しく装って行列を組んだり、舞をまったりする。限定的には、寺院や公家・武家などに召し使われる少年を指し、これが男色の対象ともなり、近世には寺小姓とよばれるものもあった。

とされる。

稚児とは、学問や躾のために寺院に預けられていた少年であるが、学問だけでなく芸事や日々の生活の躾も行っていた。「善男子」とも呼ばれ、容貌の美しい少年が預けられることが多かった。中世において僧は薪取りや博打打ちと並ぶ醜貌の職業であったとされるが、僧は美少年がいると聞けば自分の稚児とするために人買いから少年を買い取った、というような話が謡曲には多く見られる。

中には、自らの欲望を正当化するために、稚児を菩薩の化身として交接により人々を救済するという思想をでっちあげる僧もあった。三島由紀夫が「禁色」の中で参照している「弘児聖教秘伝私」などがその代表である。その教義においては、稚児は菩薩として交接による救済を行わなければならず、拒否すれば自らが罰を受ける。すなわち、菩薩の化身となった稚児は交接により衆生を救い、交接を行うことが強制される。そして、僧は菩薩となった稚児と交接を行うことにより、性欲という煩悩を消し去ることができるとされる。

(以上出典:平松隆円「日本仏教における僧と稚児の男色」)

ジャニー喜多川がいつどうやって男色の味を覚えたのか知らないが、もともと同性愛者であったとしても、家庭環境がその開発を育てた可能性もあるのではないか。

加えて、朝鮮戦争の戦地における経験もジャニーの犯罪的素質の開花に貢献したように思われる。(崔吉城「朝鮮戦争における国連軍の性暴行と売春」参照)

ジャニーが朝鮮半島で行った仕事は、「米軍キャンプの外にある児童養護施設で暮らす子どもたちに軍関係の仕事をあっせんし、小遣いを稼がせることもあった」(日刊スポーツ2019年7月9日付)、「戦争孤児となった子供たちに英語を教える」(スポーツ報知2019年7月10日付)等らしい。その実態がどんなものであったかは想像するに余りある。

要するにジャニー喜多川という稀代の性犯罪者は、仏教破戒僧の男色と戦時性暴力という、この世の二大暗黒面が交わることによって戦後日本に生み出された徒花であり、日本芸能史に刻印された決して落ちないドス黒い染みのようなものである。

そのような無間地獄の住人に思うがままに支配され蹂躙されているのが我が国の芸能界なのである(本人は死んだがその支配は未だに続いている)。

服部良一の次男で服部克久の弟である服部吉次のこの告発は、あまりにも重い。

今こそ、ジャニー喜多川の性犯罪の全貌を明らかにして、膿を出し切るべきである。

さもなければこの国の芸能界全体が腐乱し、爛れた死体と化すであろう。

個人的には別にそうなったって全然構わないのだが―――。