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備忘録メモ(アレント人間の条件)

人間はいずれは死んでいく存在だが、人間が生まれたのは、死ぬためではなく、何かを始めるためなのである。

ハンナ・アーレント『人間の条件』

 

以下はアレントの本の要約ではなく、読んで自分で勝手に思い浮かべたメモにすぎません。後日どんどん加筆修正予定。

 

全体主義の起源』で政治的全体主義が人間の精神をいかに窒息させ動物化させるかを分析したアレントは、『人間の条件』では西洋の歴史を辿って「人間活動」全体を視野に入れて人間の動物化とそれに抗う手段を論じている。

 

ギリシアの民主政の過程で「私的領域」と「公的領域」の区別が起こった。

「私的領域」は私有財産。財産(プロパティ)は富(ウェルス)とは違う。

財産は私的領域を確立するためのもの。私的(private)な領域とは公的な人間としての役割を奪われた(deprived)な状態でもある。

「公的領域」とは複数の人間が共通のものについて多様な意見を交わし合う場所。政治が生まれる場所。

近代以降は私的領域と公的領域の区別が曖昧となり一体化していった。

 

ギリシア以来、人間にとって「観照的生活」が「活動的生活」の上位にあるものとされた。観照は思考の上にある、物事を認識洞察すること。

そのため「活動的生活」についての考察がなおざりにされてきた。

しかし近代では立場が逆転し、活動的生活が最高の位置にあり、観照的生活はむしろ消滅した。

「活動的生活」は「労働(labor)」「仕事(work)」「行為(action)」に分けられる、というのがアレントの分類。

「労働」は主に人間の生物的欲求を満たすために具体的に手足を使って行われるもの。自然と生命の循環過程でもある。農業や狩猟がその典型か。ギリシア・ローマ時代には奴隷に家内労働を行わせた。

「仕事」は思考を使って「役に立つもの(特定の目的に仕えるもの)」を作る。しかし産業革命による生産手段の高度化により仕事(生産過程)自体が目的化する。そして人間(労働力)が手段化する。マルクスの言う疎外はここから起こる。アレントマルクスに批判的。それはマルクスが人間が労働から解放される社会をユートピアと同視したからだが、実際に労働から解放されたときに生じる余暇では大衆による「消費活動」のみが起こる。使用価値は交換価値にとってかわられ、市場ではあらゆるものが交換可能な消費財となる。

アレントは消費のための自然からの収奪の限界(エコロジー)については論じていない。

計算機械(アレントの時代ではコンピュータという用語はまだ一般的でなく、まして人工知能やAIという言葉はなかった)は人間の思考の一部(計算演繹能力)を拡張するが、価値の創造はできない。

「明らかなのは、頭脳力とそれが生み出す強制的な論理の過程は、労働と消費の強制的な過程と同じく世界とは無縁であり、それによって世界を打ち立てることはできないということだ。」(p295)

だがそもそも創造的な人間(独立した思考のできる人間)はほとんどいないので、ほとんどの人間は計算機械の奴隷となる。

 

「労働」と「仕事」は人とモノの関係だが、「行為」は人と人の関係である。

行為には言論が伴う。行為によってはじめて人間活動は未来に残る(永続する)ものとなる。

現代世界では「行為」する人間はごく一部に限られる。

 

ギリシア以来西洋の知を動かしてきたのは「驚嘆の念」だったが、近代のデカルト以降は「懐疑」がすべての知的活動のおおもとになった。

「懐疑」をもたらしたのはガリレオが望遠鏡を発明して、地動説にリアリティを与えたことがきっかけになっている。ガリレオ以前の地動説は思弁的なものでリアリティを欠いていた。

「仮説が現象と一致するのを証明することと、地球の運動のリアリティを実際に示してみせることとはまったく別のことなのである。」(p468)

望遠鏡という工作人の「仕事」によりそれまでの世界観が揺らいだ。このような衝撃を存在論的衝撃(オントロジカル・ショック)という(アレントはこの言葉を使っていない)。

人間は世界や自分の存在(リアリティ)を信じることができなくなった。そして人間は欺罔されているとの感覚をもち、世界は善なる神ではなく邪悪な存在によって操られているのではないかとの疑問を抱くようになった。

デカルトの「我思うゆえに我あり」は「我疑う、ゆえに我あり」の言い換えである。デカルトの懐疑をつきつめたのがキルケゴールであり、ニーチェの「神は死んだ」もそこからつながっている。

かつての「観照」が「思考」に、「思考」が「計算」にとってかわられ、あらゆるものが交換可能な「商品」と化した時、それを「消費」するだけの人間はもはや人間の名に値しない、全体主義における「アトム化した大衆」と同じであり、個性を失った動物である。

「労働社会の最後の段階としての職業人の社会は、すべての構成員がまったく自動的にその職務を遂行することを要求する。そこでは、個人の声明は種の包括的な生命過程に完全に埋没してしまったかのようだ。個人に対して求められているただ一つの積極的な決定は、いわば自分の個性を放棄すること、今なお個人が感じている生命の苦痛や労苦を放棄すること、すなわち機械の部品のように機能する行動のパターンに木住することで苦痛を麻痺させ、沈静化することである。

近代の行動主義理論の問題は、それが間違っていることではなく、むしろそれが正しいものでありうること、つまり近代社会の明白な一定の傾向を把握できる最良の方法であることにある。

近代という時代が、先例のない爆発的な人間の活動をもたらして、将来を約束するかにみえながら、歴史上いまだかつてないような致命的で不毛な受動性に終わるということも、十分考えられることなのだ。」(p546)

アレントは人間が「動物の種としての存在に退化し始めているのではないか」という危険を指摘して終わっているが、現代世界の状況はまさに彼女の予言通りになっているとしか思えない。

現代の自然科学は、原子の「生命」について語っている。観測者の目には、すべての分子はあたかも欲するまま「自由」に行動しているように見える。

これらの分子の運動は統計学的な法則に従っているが、それは現代の社会科学者が人間の行動を支配しているとする法則とまったく同じで、個々の分子が選択の「自由」をもっているように見えたとしても、就籍された多数はそうした法則に従って「行動(behave)」しなければならない。

言い換えれば、無限に小さな分子の運動が、太陽系の行動パターンと観測の上では類似しているだけでなく、人間社会の行動パターンとも類似している理由は、われわれが自分自身の存在から切り離されてしまっているからなのだ。(p547)