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あまりに文学的な

東浩紀「訂正可能性の哲学」 (ゲンロン叢書)を買った。

新宿の紀伊国屋で買ったのだが、数か月前に同店に行ったときは目立つ場所に大量に積まれていて緑の表紙が嫌でも目に付いたのだが、

昨日同店に行ったら、1階ですぐに見つかると思ったらなかなか見たあらず、3階の日本思想のコーナーに2冊だけひっそり置いてあった。時の流れは早いなと思った。

代わりに千葉雅也の新刊が至る所に積まれていた。

読み始めたが、最初は「観光客の哲学」の第2部で取り上げられていた「家族」というテーマへの論考から始まっていて、ウィトゲンシュタインの「言語ゲーム」や「家族的類似」、クリプキの『ウィトゲンシュタインパラドックス』などを用いながら、「訂正可能な共同体」としての家族という概念の再構成を試みている。

前著では不十分な扱いに留まっていたとの著者の認識があり、さらに突っ込んだ「家族」論が展開されているわけだが、東も述べている通り、「家族」=「家イエ」という概念はどうしても前近代以来の保守的なイメージが付きまとうので、なかなか厄介な議論ではあると思う。

これは「観光客」という前著のテーマにもいえることで、東としては「中途半端な物事とのかかわり方」、「まじめとふまじめの間にあるニュアンス」を表現するための概念であるというが、どうしても「物見遊山」というネガティブなイメージが付きまとうため哲学的概念としての再構成には困難が伴うだろう(現に「福島原発観光地化計画」の企ては失敗に終わっている)。

これを逆に見れば、アクロバチックで大胆な企てともいえるわけで、こうした「いりくんだロジック」の愛好は、彼の直接の思想的師であるデリダだけでなく、この本でもキーワードになっている「一般意志」の創案者ルソーの影響を感じる。

とりわけ東がこれほどルソーに思い入れがあるということは知らなかったので、興味深く感じている。ルソーは世界で最初の私小説作家であった。

これまでほとんど無視していた東浩紀の、ある意味で「私小説的」ともいえる彼の自己言及に富むテキストを読んでいくうちに俄然興味がわいてきた。

彼の書いた小説(クォンタム・ファミリーズ)も読みたくなったし、デビュー論文「存在論的、郵便的」も読みたくなった。

ひととおり読んでから、改めて東浩紀について考えてみたい。