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小島信夫「小説作法」メモ

私はゴッホの絵で、部屋の中の椅子だけをかいたものを見てグロテスクで、ユーモラスなのにおどろいたことをおぼえている。なぜそういうふうに感じるかといえば、さっきゴッホ自身がのべているように、人物をかくのと同じ感情でもって椅子をかいているからだ。椅子は表情をもち、動き出しそうに見える。また椅子に人物をおなじものを見ようとする態度そのものの背後に、ゴッホの人間同志のあいだの愛憎、たたかい、といったものがあるからで、椅子を人物のごとくかかなければならなかったのは、ただそうかいて見てやろう、というのでそうしたわけではない。そうでなければ、あれだけの生きた作品はできるはずがない。

 

ドストエフスキーは『悪霊』の場合、いろんな、スケールの大きい人物がいっぱいでてきます。小さいことと結びつけて書かれているために、非常に生き生きしてくることも事実です。しかし問題はそこに、それが自分の問題であるという思いがこもっているかどうかということなのです。どのくらい思いをこめて生きたか。ドストエフスキーという人は様々な経験をした人ですし、極端なことには、自分がシベリアの三年間か四年間ですか、流刑生活の中でいろんな人を見て、いろんな経験をしたでしょう。そこで、この小説家はその人たちのいいぐさ、しぐさ一つ一つに対してひどく不思議がり、驚き、何より自分がどのように映っているかに驚いたと思います。そうして、獄につながれている人間としての自らの意味を考えたでしょう。そういう口惜しいつきあいの中で、彼は人々の中に自分を、自分の中に人々を見出したことは、想像にかたくありませんね。一口にいえば、彼の空想の土台はそこにあるのでしょうし、リアリティーの根本はそれでしょうね。

 

それからもう一つ。これは私の身近な人の話で申し訳ないんですけどね。ぼくの友人で若い人――若いといったってあなた方の歳の二倍くらい、もう四十くらいになる。言葉について関心のある人で、いろんな研究をしてるんです。新しい文学の研究もしてるし、小説なんかも書こうとしてるし、芝居も書いたことのある人です。

その人が最近小説を書きまして、ぼくに見てくれというんです。百枚くらい見せてもらいました。そりゃいろいろ勉強をした人だし、なかなか面白いものを持った、いかにも現代の書斎人のような特徴をもった人なんですね。そこに書かれているのは、言葉について考えている人たちが言葉について喋りあっているとか、あるいはそういう人たちの、そういう男の目に映っている視覚の世界、フランス文学に出てくるような世界が、いろいろ書かれているわけです。

ところが、どうも読むと面白くない。何かどこかの理論をもとにおいて書いたみたいで、作品としては面白くない。ぼくはこういう言い方をした、酷だけどね。「こういうものを書くときは、見本を圧倒するくらいの、あるいは見本を忘れさせるくらいであれば結構だ」とね。

それでは忘れさせる一つの道は何か? こういうことを書いた人間を書けばいいんですね。つまりこういうふうに考えておる人間、ものを見て「ああこういうふうに映るぞ」とだとか、「言葉のことはこうだぞ」とか。そうすると奥さんが「あなた何考えてるの」と来るでしょう。「おれは言葉のことを考えているんだ」。すると奥さんは奥さんで、別なことを考えて喋っておる。全然くい違ってしまう。

だからぼくは意地が悪いようですけど、「君の救われる道はそれ一本だ」というんです。君という人間を書くことなんですね。君という人間はひどく特徴がある。現代的なんです。「君はねえ、ぼくらが見ると良い一つの材料で、本当にもったいないような人物なんですよ」。

それから彼はこういうことを言うんですよ。「街を歩いていてもデパートへ行っても、『あいつは教師だ』とすぐ分かる自分が嫌でしょうがない。自分が教師だって見られているかと思うと背中がもう嫌でしょうがない」。だから私はこう言います。「君はね、そういう人間を書けばいい。だけども、君は自分の背中を見られるのがいやだという気持ちでいるから書けない。」

そうでしょ。小説というのは背中を書かなきゃいかんわけですよ。そこに難しい問題がある。だから紙一重のところで切り替えれば人物化されるわけでしょ。ぼくはそう言うんです。

私、あなたが今日なら今日、生きているということだけは間違いない。これはまさに今風に生きて、生きてめしを食って、ああしてこうして生きてるわけですね。この生きてるところの存在の仕方ってものを、どう見るかということですよ。これは間違いなく現代なんです。ところがそれを見るときに、変な尺度を持って見るから、型にはまってしまうことになる。それを人物化する紙一重のところで、自分を見るどこかで、さっと切り離してしまうことができればいいが、そう簡単にできるはずはないし、しかも出来なければ小説家ではない。あるいはできないから、私はこういうことを彼に言うんですよ。その友だちにね。

「君が今書いてきたでしょう。これは、君は作者として書いているんだ。それにここでちょっと言葉を入れると人物になる。だから君がおこがましくも作者と思って書いているのを人物化するには、ちょっと二、三行入れると変わっちゃう。例えば、書斎の中で言葉についてものすごく考えている。例えば宇宙について考えている。それは作者がかなり良いことだと思って考えているわけです。それをそう考えている男として見れば、とたんに人物化ができるでしょう。つまり、背中から見ることですよ」。

それは実は容易なことじゃないんですよ。ぼくがそういうことを言いますと、「ああそうか。複眼ってことか」「目を二つ持てば良いってことか」と簡単なことを言いますが、そんなことじゃない。もっと身を切るようなことですよ。そうやって自分が一番大事だと思っていることを切り離すんですから、難しいんですけれど、それをやればどんな状況からでも、文学の新しい材料というやつは、まさに自分というものが存在する以上、それを元に考えてゆけばあるかもしれないですね。

 

それからよく、他者という言葉を使いますね。これは僕もあんまり好きじゃない言葉なんですが、他者ということを考えなきゃいけない、などと僕も言います。

他者というのは実際は、都合よく固定した何かがあるわけではないんですね。たとえば、自分が他者を見て、他者のことを考えていると思った途端に、他者は自分の中に入っちゃうんですね。こういうふうにわれわれは生きているわけです。

ところが、突然まったく気がつかない声として他者が現れるときは、お告げみたいなものがパアッと聞こえてくるわけですね。突然、突如として、お告げというか、まあ声って比喩的でもあるけど、われわれの実感としてそういう感じがすることがあると思う。突如として忘れていた声が聞こえてくる。

われわれは忘れて暮らしているわけですね。忘れて暮らしているときには、小説を書くということも本当は忘れているのかもしれない。ところが、小説の中で書いているうちに、日常の中で忘れていたことにはっと気がつくこともあるわけですよ。小説にその声が立ち現れるんですね。これは非常に流動的というのか、いつ来るか分からない存在としての他者です。これをキャッチすることで小説ができているんですね。あれも書いた、これも書いた、あのことも脚色を使って書いたからよろしいでしょう、というような生易しいものだと、他者ということはどうでもいいんですけれども、それでは緊張感がない。生きた他者の声が聞こえてきたとき、われわれはさあっと体が締まって、真っ青になるんですね。ここに本当の、われわれの生きていることのポイントがあるわけです。

なぜ自分が書いたものは人が喜んでくれないのか。それはこの声が欠けているからなんですよ。一生懸命に書いたと思って、それでいい気分になってしまっているのかもしれないですね。その声が聞こえてきたことを感じるか感じないかということは、非常に難しくて、これは天性のものかもしれないですね。これに鈍感な人もいるわけですから。まあ鈍感であっても、別な声というものが聞こえてくる可能性が充分ありますね。他者でなくても、もっといろんな種類の声というものがあって、これはこれでいいんですが、少なくとも他者ということを言うとすれば、こういうことの方が他者だということですね。