図書館で小谷野敦『私小説のすすめ』を借りる。思ったより面白く参考になるので備忘録メモとして抜粋しておく。
私小説というのは、基本的に、自分とその周囲に起きたことを、そのまま、あるいは少し潤色して書いた小説のこと。必ずしも「私」が主人公である必要はなく、三人称の語り手による場合もある。
車谷長吉(私小説作家廃業を宣言)、佐伯一麦(初期の破滅型・無頼型から心境小説めいた方向へ進む)、西村賢太(私小説の救世主)
自分史、自伝、ノンフィクション、手記などさまざまなジャンルに分かれるが、すべて「私小説」といってよい。
近松秋江の連作や木村荘太『牽引』が出た1913(大正2)年が私小説の始まり。
佐藤春夫『この三つのもの』 「素晴らしい作品」
谷崎潤一郎『神と人との間』 「とうてい佐藤のものに及ばない」
檀一雄『リツ子・その愛』『リツ子・その死』 全部実名のまま。名作
私小説の醍醐味は「情けなさ」にある。
志賀直哉とその弟子らの随筆風小説は私小説ではなく随筆。梶井基次郎も。
石塚友二『松風』 自身の結婚の経緯を書いたもので、胸をうつ
勝目梓『小説家』 二つ位の文学賞を受賞してもおかしくないほどの傑作
「私が四十を過ぎるまで小説が書けなかった原因のひとつに、世間知らずだったということがある。」
私小説が日本独自のジャンルであるというのは間違いだし(海外にも私小説的な作品はたくさんある)、一般に虚構小説と思われている作品にも実際には私小説といってよいものが多い(川端、谷崎、太宰その他枚挙にいとまなし)。
舟橋聖一『ある女の遠景』は名作で、丸谷才一はこれを意識して『たった一人の反乱』を書いたがあまり成功していない。時代遅れの衒学趣味。
「第三の新人では、吉行淳之介や安岡章太郎、阿川弘之などは私小説ないしは事実に基づいた作が多いし、小島信夫に至っては、ほとんど事実だけ書いてきた純前たる私小説作家である。」
私小説は売れない。だがここではプロの作家になることを勧めているわけではなく、「小説を書きたいけれど何を書いていいか分からない」「自分の体験を書きたいのだがどういう形式にすべきか」などと考えている人に、私小説は十分に立派な文学形式だ、と言いたいだけなのである。
文藝というのは元来ゴシップ的なもの(註:他人の生活の覗き見の面白さか)
佐伯彰一『自伝の世紀』 名著。西洋人の自伝をゴシップ的に紹介
「自分にとって必要な本は、パスカルとストリンドベルイ、ドストエフスキーとスタンダール、ヘッベルの日記とシュティフターの『私の曾祖父の書類入れ』、ファン・ゴッホの書簡集と、パヴェーゼの『生きるという仕事』である」
「内的な必然性から生まれ、人間としての力を仮借なく投入することによって生じたこれらの本を、私は人間の記録と呼びたい」
「私たちの時代にもこのような本が書かれることは絶対に必要だ」
「それがあとから小説と呼ばれようと別の名称がつけられようと、それはまったくどうでもよいことである」
(ドイツの作家ハンス・エーリヒ・ノサックの『文学という弱い立場』「ちょっと一言」より)
確かに、小説家になるには才能が必要で、たとえ私小説でも、それで一家を成すには才能が必要だが、入り組んだ作り話を拵える才能がなくても、私小説は書けるし、作家になるのでないのなら、私小説は才能がなくても書ける。だから私は私小説を勧めているのである。
おすすめ私小説(上に挙げたものまたは既読のもの以外)
森鴎外『半日』
武者小路実篤『お目出たき人』
宇野浩二『苦の世界』『思い川ほか』
尾崎一雄『暢気眼鏡・虫のいろいろ』
柴田翔『されどわれらが日々―』
中野孝次『麦熟るる日に』