INSTANT KARMA

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父が逝った日

わたしはきょう、この物語の結末を、つまり、一九五三年三月、わたしが父の家で、父の死を見守りながら過した日々のことを、あなたに語りたいと思う。

いま論じられているように、ほんとうにあれはひとつの時代の終り、新しい時代のはじまりだったのだろうか? わたしはそれを判断すべき立場にはない。それには時をかそう。わたしの関心は時代ではなく、人間である。

 

それは怖ろしい日々だった。もう慣れっこになり、恒久不変と思われていたことが、ふいに足もとからぐらつきだしたような感覚―それがはじめてわたしを襲ったのは、三月二日、大学のフランス語の授業に出ていたわたしに呼び出しがかかり、「『近邸』のほうへお越しいただくよう、マレンコフからの伝言です」と告げられた瞬間であった。(「近邸」というのは、クンツェヴ「モスクワ西蒲、クレムリンから約十五キロっ)の父の別荘を、ほかの遠方の別荘と区別して呼んでいた言葉である。)

このことがもう、ふつうでは考えられもしないことだった。父ではなくて、ほかのだれかから、父の別荘に招かれるなどということが……わたしは、奇妙な胸さわぎをおぼえながら、そこへ車を走らせた。

わたしたちの車が門をくぐり、別荘の建物のわきの小径で、フルシチョフとブルガーニンが車を停めたとき、わたしは、すべてが終ったのだと心に決めた……

車を降りると、二人はわたしの両腕をとって、抱きかかえるようにした。二人とも、顔を泣きはらしていた。

「家にはいりましょう」と二人は言った。

「あちらで、ベリヤとマレンコフがすっかりお話しします」

 

家のなかは、もう玄関の間から、いつもとはがらりと様子がちがっていた。ふだんの静寂、ひっそりした静寂とはうって変って、だれかがあたふたと駆けまわっていた。ようやく、父は昨夜、卒中で倒れ、現在は意識不明の状態にあると告げられたとき、わたしはむしろほっと安堵をおぼえた。そのときまでわたしは、父がもう死んでしまったものとばかり思っていたのだ。

わたしが聞かされた話は次のようなものだった。卒中は、どうやら、深夜の出来事であったらしい。父は午前三時ごろ、この部屋のこの場所、じゅうたんの上、ソファのわきに倒れているところを発見された。

それから、いつも父が寝床にしている別の部屋のソファの上に、父を移すことが決められた。いまも父はそこにおり、医師たちもそちらにいる。あなたはそちらへ行ってもよろしい。

わたしは化石したようになって聞いていた。すべてが霧のなかの出来事のようだった。こまごまとしたデテールは、もう意味をもたなかった。わたしはたったひとつ、父が死ぬのだ、ということだけを感じていた。

まだ医師たちの話は聞いていなかったが、わたしは一刻もそのことを疑わなかった。わたしの目には、周囲のいっさいが、この家全体が、いや、すでにすべてが死に瀕していることが、はっきりと見えていたのだ。

そこで過した三日間、わたしが目にしたのはそのことひとつだった。ほかの結末のありえようはずのないことが、わたしにははっきりしていた。

 

父が臥っていた大広間には、大勢の人がつめかけていた。この患者を見るのはこれがはじめてという医師たちが(多年、父を診ていたアカデミー会員V・N・ヴィノグラドフは投獄されていた)、てんてこ舞いのさわぎを演じていた。

後頭部と首にひるがつけられ、心電図がとられ、肺のレントゲン透視が行われ、看護婦はひっきりなしに何かの注射を打ち、一人の医師は手も休めずに病状経過をカルテに書きこんでいた。必要な手がすべて打たれていた。だれもが、もはや救いえない生命を救おうとして、 躍起になっていた。

どこかで、医学アカデミーの特別会議が開かれ、このうえなおどのような処置を講じうるかを討議していた。隣室の小広間でも、それとは別の医師たちが、やはり対策を協議するため、ぶっ通しの会議をつづけていた。どこかの科学研究所からは、人工呼吸装置が運ばれてきて、若手の専門家たちがそれについてきた。彼らのほかには、だれもその扱いを知らないのに相違なかった。

巨大な装置は、使われることもなくそのまま放置され、まわりの出来事にすっかり気を呑まれてしまった若い医師たちは、ぽかんとして、落ちつかぬ視線を周囲に走らせるばかりだった。

ふとわたしは、見おぼえのある女医の顔に気づいた、-どこで見かけたのだったろうか?……わたしたちは、おたがいうなずき合った。けれど、言葉はかわさなかった。神殿に詣でたときのように、だれもが努めて沈黙を守り、だれひとり、よそごとを口にしようとはしなかった。

この広間では、いま、ある重大な、偉大とさえいえる事態が進行している―そのことをみながひしひしと感じ、それにふさわしい態度を持しているのだった。

 

医師の診断によれば、父は意識を回復することがなかった。卒中の発作はきわめてはげしいもので、言語は失われ、右半身が麻痺状態だった。数回、父は目をあけたが、まなざしはかすんでいて、だれかの顔を見分けたかどうかさえ、知るすべがなかった。

父が目をあけると、全員がそのそばに駆け寄って、彼のもらす一言をとらえ、せめては目の動きに彼の希望を読みとろうと必死になった。わたしは枕もとにすわって、父の手をにぎっていた。父の目はわたしのほうを向いていたが、おそらく何も見ることはできなかっただろう。わたしは父の唇に、父の手に接吻した。それ以上、わたしのできることは何もなかった。

ふしぎなことに、父が死の床にあったこの数日、また、魂はすでに飛び去り、ぬけがらとなった肉体だけがわたしの前に横たわっていたあの数時間、そして円柱の間での最後の告別の日々、わたしはこれまでの全生涯になかったほど強い、しみじみとした愛情を父に感じた。

父は、わたしからも、わたしたち子どもからも、いや、近親者のすべてから、きわめて遠くかけはなれた存在だった。父の別荘の部屋々々の壁には、晩年になって、大きく引きのばした子どもたちの写真が飾られた。スキーをしている少年、満開の実桜のかたわらに立つ少年などの写真である。けれど自分の八人の孫のうち五人までを、父はとうとう一度として見る機会もなく終ったのだ。

とはいえ、それでも彼は愛されていた。いや、いまも愛されている。一度も彼を見たことのない、この孫たちから。けれど、父がついに、その死の床で安らかな眠りにつき、その顔が美しい平静なものに返ったあのとき、わたしは自分の心が、悲しみと愛情とに引き裂かれるような思いを味わっていた。

 

あれほどにはげしい感情のたかまり、あんなにも矛盾し合い、あんなにも強烈な感情の錯綜を、わたしは後にも先にも一度として経験したことがない。わたしが円柱の間でほとんど立ちとおした日々(わたしは文字どおり立っていた。というのは、どんなに坐るようにすすめられても、また椅子をうしろからあてがわれても、わたしは坐ることができなかったからだ。あの出来事を前にしてはただ立っていることしかできなかった)、化石したようになって、一言の言葉も発しなかった日々、わたしは、ある種の解放がおとずれたのだ、ということを理解した。

それがどのようなものであるのか、どのような形をとって現われるものか、わたしはまだ知らなかったし、しかと意識することもできなかった。ただわたしは、それがすべての者にとっての、また、わたしにとってもの解放であること、みなの魂と、心と、知性とを、切れ目のない一枚の岩で圧しひしいでいた、その圧迫からの解放であることを理解した。

けれど同時にわたしは、美しく平静な、むしろ悲しげでさえある父の顔を見つめ、葬送の曲に聞き入りながら(曲は、古いグルジア民謡の子守歌で、しみじみとした悲しいメロディだった)、わたしの全存在が悲しみにひきむしられるのを感じていた。

わたしは、自分が親不孝ものであったこと、一度としてよい娘であったためしのないこと、同じ家にいても、まるで他人のように暮してきたことを感じた。そして、この孤独な魂に、老いこんで、病いにおかされ、だれからも見捨てられて、ひとり自身のオリュンポスに閉じこもるしかなかったこの人間に、わたしがなんの力にもなってやれなかったことを感じた。なんといっても、彼はわたしの父であり、彼としては精いっぱいにわたしを愛してくれ、そして、わたしとしても、彼にはうらみだけではなく、恩義をもまた感じていたというのに……

その何日間か、わたしは何ひとつ口にしなかった。泣くこともできなかった。石のような冷静さと、石のような悲しみが、わたしをおさえつけていた。

父の死は苦しげな、恐ろしいものだった。しかもそれは、わたしがはじめて目にした、そしていまのところはただひとつきりの死であった。神は心ただしい者には安らかな死をめぐみ給う……

脳溢血は徐々に全中枢にひろがっていくものだが、心臓が強く、丈夫な場合には、それはゆっくりと呼吸中枢をおかし、人間は窒息のために死んでいく。呼吸はますます頻繁になっていった。最後の十二時間には、酸素の欠乏が昂進していくのが、もうはっきりと見てとれた。顔が黒ずんで、人が変ったようになり、その輪郭からもしだいになじみの面影が消えていき、唇が黒くなった。

最後の一、二時間は、要するに、人間がゆっくりと窒息していく過程だった。断末魔の苦悶は恐ろしいばかりだった。それは、みなの眼前で彼を締め殺していった。ある瞬間に―それが実際にあったことなのか、ただそう思えただけなのかはよくわからない―たしか、もう最後の数分というときになって、父はふいに目をあけ、周囲に立っていた者たちをぐるりと見わたした。

それは無気味なまなざしだった。狂気ともつかず、怒りともつかず、ただ死への恐怖と、自分の上にかがみこんでいる見知らぬ医師たちへの恐怖とにみたされたまなざし―そのまなざしが、一分の何分の一かの間、ぐるりとみなを見わたしたのだった。

そして、このとき、―それは不可解な恐ろしいことで、わたしにはいまもって理解できないが、かといって忘れることもできない―このとき、突然彼は左手を上にあげ(左手はそれまでも動いていた)、その手でどこか上のほうを指差すとも、わたしたち全員をおどしつけるともつかぬ身ぶりをした。それは、不可解ではあったが、いかにも威嚇的な身ぶりだった。そして、それがだれに、何にかかわるものだったのかは、知られぬままに終った……つぎの瞬間、魂は、最後の努力をなし終えて、肉体から離れ去った。

わたしは、自分の息がとまるかと思った。わたしは、すぐ横に立っていた顔見知りの若い女医に両手でとりすがった。彼女は痛みにうめき声を立てた。わたしと彼女とは手に手を取り合った。

魂は飛び去った。肉体には安静が返り、顔は青ざめて、なじみの面影をとりもどした。数秒後、それは落ちついた、安らかな、美しいものになった。周囲では、みなが化石したようになって、沈黙のまま、何分間か立ちつくしていた。何分間であったかは知らないが、それはたいそう長い時間に思われた。


みなが散って行った。死の床には遺体が残された。それはなお数時間、そのままに置かれるはずだった。そういうしきたりになっていたのだ。

広間にはブルガーニンとミコヤンが残った。わたしも残り、反対側の壁ぎわのソファに腰をおろしていた。灯火は半分が消され、医師たちも立去った。ただひとり、クレムリンの病院でわたしもずっと以前から知っている、年老いた付添いの看護婦だけが残った。彼女は、広間の中央に置かれた大きな食卓の上で、何やらひっそりと片づけものをしていた。

この広間は、人数の多い会食が行われ、また政治局の小範囲の会議が行われる場所だった。この食卓を前に、夕食や夜食をともにしながら、さまざまな問題が解決され、処理されていったのだった。父のもとへ「食事に来る」とは、何かの問題の決定に集まることを意味していた。

床には巨大なじゅうたんが敷かれていた。壁に沿って肘掛椅子やソファが置かれ、片隅には煖炉が切ってあった。父は冬にはいつも煖炉の火を見るのが好きだった。もう一方の隅には電蓄とレコードが置かれていた。父は、ロシア、グルジア、ウクライナの民謡のよいコレクションをもっていた。それ以外の音楽を父は認めていなかった。父の晩年は、ほとんど二十年近くも、ずっとこの部屋で過されたのだった。いま、それは、自分の主人と別れようとしていた。

 

使用人や警護員たちがお別れにやってきた。これこそ真の感情、心底からの悲しみの光景であった。料理人、運転手、警護隊の当直指令員、ウェイトレス、庭師―彼らはみな静かにはいってきて、黙ったままベッドのそばへ歩み寄った。そして、みなが泣いていた。

子どものように、手で、袖で、ハンカチで涙を拭うものもあった。多くの人が声に出してすすりあげていた。そして、彼らに鎮静剤を手わたす看護婦自身も泣いていた。けれどわたしは、石のような女なのだろうか、坐ってみても、立ってみても、その様子に目をこらしてみても、ほんの一滴の涙も出てくるではなかった……かといって、部屋を出て行くこともできなかった。わたしは、ただ目の前の出来事を眺めながら、その場をはなれられないでいた。

父のこの別荘で十八年間もハウスキーパーを勤めていたワレンチーナ・ワシリエヴナ・イストーミナ、みなの呼び名ではワーレチカがお別れにやってきた。彼女はソファの横にどうとばかり崩折れて、膝立ちになると、遺体の胸に顔を埋めて、農村でするように、おいおいと声をあげて泣いた。長いこと、彼女は泣きやむことができなかった。そしてだれひとり、彼女をとめようとするものはなかった。

父の家に勤めていたこの人たちは、みなが父を愛していた。父は日常生活ではむら気なほうではなかった。それどころか、使用人に対しては口やかましくなく、腹蔵のない、やさしい態度で接していた。叱りつけるとしても、それは警護隊の隊長とか、別邸管理司令官とかの「おえら方」にかぎられていた。

使用人のほうは、父の頑固さや、不人情さをこぼすどころか、むしろ逆に、いろんな頼みごとを父にもちこんでは、いつもそれを聞いてもらっていた。現にワーレチカにしても、ほかの使用人たちと同様、最近何年間か、遠くにはなれて暮していて、ろくにつき合いもしていなかったわたしよりは、父についてはるかに多くを知っていたし、はるかに多くを見ていた。大きな会食のときには、いつも自分で給仕にあたり、この大テーブルのまわりで、全世界からやってきた人々も目にしていた。

彼女は実に多くの興味深いことを見てきている。もちろん、自分の視野の範囲内でだけれど、いまでも時おり行き会うと、たいへん生彩のある、ユーモアに富んだ話を聞かせてくれる。使用人がみなそうであるように、彼女も生涯の最後の日まで、この世の中にはわたしの父よりもよい人間はいなかった、という確信をもちつづけることになるだろう。いや、この確信を変えさせることは、どんなことをしてもできまい。

 

その夜おそく、―あるいは、もう明け方近くであったかもしれぬが、解剖に付するために遺体を運び出しに来た。とたんにわたしは、何かわからぬ神経的なふるえに襲われはじめた。

せめて涙でも出るなら、わっと泣けるならまだしも、ただふるえるだけなのだ。担架がかつぎこまれて、その上に遺体が置かれた。わたしははじめて父の裸体を目にした。それは、すこしも老いぼれた感じのない、老人のものとも思えぬ美しい肉体だった。と、わたしは、心臓をナイフでえぐられるような、奇妙な痛みにとらえられた。

このときわたしは、「血を分けた肉親」ということが何を意味するかを理解し、実感したのだった。そしてまた、わたしに生命をさずけてくれた肉体が生きて呼吸することをやめ、にもかかわらず、わたしはなおもこの地上に生きつづけることになるのを悟ったのだった。

こうしたことは、自分の目で肉親の死を見るまでは会得できないことだろう。そして、より広い意味で、死とは何かを知るためには、せめて一度でもそれを目にすること、「魂が飛び去り」、うつせみの肉体がとり残されるさまを見ることが必要なのだ。

あのときわたしは、この一切を理解した、というよりも、むしろ実感したのだった。この一切がわたしの心を横切りとおり、そこに痕を残していったのだった。

 

こうして遺体は運び去られた。別荘の建物のドアの間近まで、白塗りの自動車が乗りつけ、全員が外へ出た。道に立っていたものも、玄関の昇降階段のわきに立っていたものも、帽子をとった。

わたしは戸口に立っていた。だれかがわたしに外套を羽織りかけてくれた。わたしは全身をがたがたふるわせていたのだ。だれかがわたしの肩を抱きかかえた。それはブルガーニンだった。ばたんとドアが閉って、車は動きだした。わたしはブルガーニンの胸に顔を埋めて、このときはじめて、わっと泣きくずれた。彼もやはり泣きながら、わたしの頭を撫でていた。みなは、なおしばらく戸口に立っていたが、やがて散りはじめた。

 

わたしは、台所から食事を運ぶための長い廊下で母屋と結ばれている使用人部屋のほうへ行ってみた。看護婦も、使用人も、警護隊員も、残った者は全員がここに集まっていた。食器戸棚とラジオがそなえてある食堂の大きな部屋に、みなが坐っていた。今度のことの次第、いきさつが、何度も何度も、くり返し話題にのぼっていた。

わたしはむりやり食事をさせられた。「きょうはたいそうつらい一日になりますよ。それに、きのうから眠ってもいらっしゃらないし、もうじき円柱の間にもお出かけにならなきゃならない。いまのうちに力をつけておおきなさい!」

わたしは何か口にして、 肘掛椅子にもたれた。 朝の五時だった。 わたしは台所へ立った。 廊下で、はげしい号泣が聞えた。ここの浴室で心電図を現像していた看護婦が、大声で泣いているのだった。それは、彼女の全家族がいちどきに死んでしまったような泣き方だった……「ああやって、閉じこもったきり泣いているんですよ。もうだいぶ前から」だれかが話してくれた。

 

食堂に坐っていた人々は、無意識のうちにひとつのことを待っているふうだった。やがて、朝の六時になる、そうしたらラジオが、すでにわたしたちの知っているあのニュースを発表するのではないか。

こうして、ついに六時がきた。ゆっくりと重々しいレヴィタンの声が――いや、それは、レヴィタンとよく似たほかのだれかの声だったかもしれない、重要発表のときにはいつも聞えるあの声が流れた。そして、このときはじめてみなは理解した――そうなのだ、あれは真実だったのだ、実際にあったことなのだ、と。

みなはあらためて泣いた。男も、女も、みなが……わたしも泣いた。 そしてわたしはうれしかった、わたしが一人でないことが、 ここにいるすべての人たちが出来事の意味を理解して、わたしといっしょに泣いていてくれることが。

ここでは、真情にあふれていた。だれひとり、他人の前に自分の悲しみを、自分の忠誠を見せつけようとするものはなかった。みなが長年知り合ってきた仲だった。わたしのこともみなが知っていてくれた。わたしがわるい娘であったことも、父がわるい父親であったことも、けれど、それでもやはり父はわたしを愛し、わたしは父を愛していたことを。

ここではだれひとり、父を神とも、超人とも、天才とも、悪人とも見ているものはなかった。父は、最もありふれた人間的な資質のゆえに愛され、尊敬されていたのだった。こういう資質については、いつも使用人がもっとも誤りのない判断をくだすものである……

『スベトラーナ回想録:父スターリンの国を逃れて』

スベトラーナ・アリルーエワ 著  江川卓 訳 新潮社 1967