INSTANT KARMA

We All Shine On

S,L&S

吉田豪showroomに出演していた関美彦YouTubeに上がっている音楽が割とよくてBGMに重宝する。

youtu.be

彼のHPに載っている小説「Boy Meets Girl 」もなかなか面白かった。

どことなく小島信夫を感じさせる力の抜けた文体が味わい深い。

脱力して、惚(とぼ)け切ったまま、残りの人生を逃げ切りたい。

そんな情熱が、そこはかとなく伝わってくる。

 

すべての眼で生きものたちは開かれた世界を見ている。

われわれ人間の眼だけがいわば反対の方向へ向けられている。

そして罠として、生きものたちを、かれらの自由な出口を、十重二十重にかこんでいる。
その出口の外側にあるものをわれわれは動物のおももちから知るばかりだ、

おさない子供をさえもわたしたちはこちら向きにさせて形態の世界を見るように強いる。

動物の眼にあれほど深くたたえられた開かれた世界を見せようとはしない、

死から自由のその世界を。

死をみるのはわれわれだけだ。

動物は自由な存在としてけっして没落に追いつかれることがなく、

おのれの前には神をのぞんでいる。

われわれはかつて一度も、一日も、ひらきゆく花々を限りなくひろく迎え取る純粋な空間に向きあったことがない。

われわれが向きあっているのは いつも世界だ。

けっして「否定のないどこでもないところ」―――たとえば空気のように呼吸され無限と知られ、それゆえ欲望の対象とはならぬ純粋なもの、見張りされぬものであったことはない。・・・

幼いころ、ひとはときにひそかにそのほとりへ迷いこむ、と手荒に揺すぶり醒まされる。

また、あるい人は死ぬときにそれになりきっている。

なぜなら死に臨んでひとの見るものはもはや死ではなく、その眼はずっと遥かを見つめているのだから。

おそらくはつぶらな動物の眼で。・・・

わたしたちはいつも被造の世界に向いていて、ただそこに自由な世界の反映を見るだけだ、しかもわたしたち自身の影でうすぐらくなっている反映を。

または、物言わぬ動物がわたしたちを見あげるとき、その眼は静かにわたしたちをつらぬいている。

運命とはこういうことだ、向きあっていること、それ以外のなにものでもない、

いつもただ向きあっていること。

 

リルケ『ドゥイノの悲歌』第八の悲歌より

 

権力は、それを掌中にしている者、その近くにいる者、それを切望している者のすべてを腐敗させる。…権力が強大になればなるほど、それはより邪悪になる。それはあらゆる人が罹り、そして大切にし、崇拝する病である。しかしそれと共に、常に果てしのない争い、混乱、悲しみが到来する。しかし、誰もその病を否定せず、止めようとしない。

…あらゆる形態における権力を否定することが、美徳の始まりである。…混乱、争い、悲しみを伴うこの力の完全な終焉によって、誰もが、一束の記憶と深まりゆく寂しさにすぎないあるがままの自己と直面する。力と成功への欲望は、この寂しさと記憶という残骸からの逃避である。それらを非難することによって回避するのではなく、あるいは、あるがままの恐怖から何らかの方法でそれらを回避するのではなく、乗り越えていくために、それを見つめ、向き合わなければならない。恐怖は事実、あるがままのものから逃避するというまさにその行為からのみ生じてくる。すっかり完全に、そして自発的で自然に、力と成功を捨てねばならない。そして選択することなく直面し、観察し、受動的に目覚めている中で、その残骸と寂しさは全く違った意味を持つ。…

あたかも実際のドアをかいくぐってゆくようにして、この寂しさをあなたが通り抜けてゆく時、あなたは自分がこの寂しさと一体であり、言葉を超越したあの感覚を観察している観察者ではないことを理解する。あなたはそれである。そしてあなたは以前多くの巧妙な方法でやってきたようには、それから逃れることはできなくなる。あなたがその寂しさなのだ。いかなる方法によってもそれを逃れることはできず、何物もそれを覆い隠したり満たしたりすることはできない。そしてそれと共に生きているあなただけが存在する。それはあなたの一部であり、また全体でもある。絶望や希望によっても、皮肉な考えや知的策謀によってもそれを消し去ることはできない。あなたはその寂しさであり、かつては燃え上がったその残骸である。これはいっさいの行為を超越した癒されることのない完璧な孤絶である。頭脳はもはや逃避の手段や方法を画策することができない。それは自らの孤立や防御や攻撃の絶え間なき活動を通して、この寂しさを創り上げているのだ。頭脳が、選択することなく、無作為的にこのことに気づく時、頭脳は喜んで死滅し、完全に静止する。

この寂しさから、これらの残骸から、新しい運動が生まれる。それは〈独り〉の運動である。それはすべての影響、いっさいの強制、あらゆる形態の探求と達成が、自然にそして完全に停止した時の状態である。それは既知なるものの死である。そうして初めて、あの未知なるものの決して終わることのない旅がある。かくして創造である純粋性を持つ力が存在する。

クリシュナムルティのノートブック」より

 

長いあいだ、わたしたちはそこにつっ立ったまま、その男の、深刻な、肉の落ちた笑い顔を見下ろしていた。男のからだは、かつてはどうやら抱擁の姿勢をとっていたものらしかったが、いまでは、愛のあとまで生きながらえ、愛のしかめ顔さえも征服する長い眠りが、彼を寝とっていた。いくらか残った寝巻の下に朽ち果てた、いくらか残った彼の肉体は、いまでは、彼の横たわっている寝台から引き離すことのできないものとなっていた。そして、彼の上にも、また彼のかたわらに置かれた枕の上にも、根気強いほこりの、一様な薄膜がおりていた。

それから、わたしたちは、第二の枕の上に、ちょうど頭の形のくぼみができているのに気がついた。わたしたちの一人は、その枕の上からなにかをつまみあげた。わたしたちは、あのかすかな、眼に見えぬほこりを鼻孔のあたりにツンと感じながら身をかがめて、一つかみの、長い、鉄灰色の髪の毛を見たのである。

フォークナー「エミリーにバラを」より