1913年(大正2年)0歳
12.18 リューベック郊外のザンクト・ローレンツ・ズートでヘルベルト・フラームとして生まれる。婚外子として生まれ、父親は長らく不明だった。

ブラントの非嫡出子としての出生は後々まで政敵によって彼を中傷するために利用された。彼は「自分の出自と中傷」が「自分の脇腹に棘を植え付けた」と述べていた。
母親はマーサ・フラーム(旧姓エヴェルト、1894年 - 1969年)で、リューベック消費者協会の販売員だった。マーサ・フラームは、息子ヘルベルトの出生を戸籍に登録した際に父親の名前を記載しなかった。
1914年(大正3年) 1歳
2.26 リューベックのザンクト・ローレンツ福音教会の第二牧師館で洗礼を受ける。婚外子に対する教区教会での洗礼は認められていなかった。
最初は母親の家で育ったが、母親は仕事をしていたため、平日は近所の人が彼の面倒を見ていた。
1919年(大正8年)6歳
継祖父のルートヴィヒ・フラーム(1875年 - 1935年)が子供の世話を引き継ぐ。フラームが亡くなるわずか1年前に、ブラントはルートヴィヒ・フラームが自分の実の祖父ではないことを知った。
フラームは1899年にマルタ・エヴェルトの母ヴィルヘルミーネと結婚し、第一次世界大戦から帰還後、 5歳のブラントとすぐに親密で信頼関係を築いた。彼はブラントを自分の家に迎え入れ、ヴィルヘルミーネの死後、ブラントが嫌っていたドロテア・シュタールマンと再婚した後も、1920年代を通してヘルベルトの世話を続けた。ブラントは継祖父を「パパ」と呼んでいた。ルートヴィヒ・フラームは彼の高校の卒業証書に父親として記載されていた。
ヘルバートはおそらく、幼少時代で最も永久に記憶に残ると思われる経験をした。リューベックの労働者がストにはいった。そのストは全面的な工場閉鎖にまで発展した。苦しい日々がつづいた。ヘルバートは八つか九つだったが、金持ちと貧乏人の差がわかるには十分な歳ごろであった。かれは自分が貧乏人に属していて、手のとどかないものがたくさんあることを知っていた。しかし、本当の不幸をまだ知らなかった。いまやとつぜん、飢餓が悪地主のように台所に立っていた。
「ひもじいのかね、坊や」
ヘルバートはパン屋の店先に立ちどまり、食パンとロール巻きをもの欲しそうに見つめていた。これまで、こんなにおいしそうに見えたことはなかった。その香ばしいにおいに、かれは、めまいを感じた。頭がポーッとしてクルリと向きをかえたそのとき、急に一人の紳士が話しかけてきた。その人はドレイガー工場の支配人の一人で「法務長官閣下」とあだ名された人だった。かれはゴクリとツバを飲みこみ、やがてうなずいた。支配人はかれの手をとって店にはいってゆき、パンを二塊買ってくれた。
「さあ、おあがり」と、かれはいった。
ヘルバートはくびすを返すと一目散に走った。その紳士が気持ちをかえて、パンを取り上げないかしらと心配したからだ。
ヘルバートは、息せききって家へたどりついた。そしてあえぎながら、祖父にこのことを話した。祖父は非常に真剣な顔つきになって言った。
「パンを返しておいで。 いますぐに」
ヘルバートには、 わけがわからなかった。
「返すんだって。 法務長官さんが私にくれたんだよ」
「くれただって、ストライキをやるものが雇い主から、一片のお情けもちょうだいするわけはないんだ。敵から買収されてはならんのだ。こじきじゃないんだ。われわれは権利を要求しているので、施しを求めているのではないんだ。さあ、いますぐパンを返しにおゆき」
これまでヘルバートは、祖父がそんなにこわい顔をして怒るのを見たことがなかった。ヘルバートの困惑は大きかったが、恥ずかしさはもっと大きかった。なにも知らなかったといえるだろうか。かれは家で、祖父やその親類や仲間の工員たちが議論を闘わすのを熱心に聞いていたものだ。いまはもちろんその命令を行なうだけであった。事実、それは命令以上のものであったし、それはかれが託された一つの使命のようであった。かれは敵陣営にメッセージを伝えるため出された兵士のように感じた。誇らかにかれはパン屋にとってかえし、パンをカウンターに差しだして叫んだ。
「ここへおいとくよ。こんなものはいらないんだ」
かれが感じた勝利感は、ひもじささえ忘れさせた。この幼時の経験はヘルバートと祖父の結びつきをさらに強めた。
1925年(昭和元年)12歳
ファルケン(社会主義の鷹)の子供グループであるキンダーフロインデ(子供の友)のメンバーとなる
1927年(昭和2年)14歳
2月、ユリウス・レーバーが編集する地元のSPD機関紙『リューベック・フォルクスボーテ』にエッセイ掲載。エッセイには2枚の挿絵が添えられており、友人たちとトラヴェ川の源流まで日帰りハイキングをした時のことを綴っていた。
9月、母親が現場監督のエミール・クールマンと結婚。
フォン・グロースハイム実科学校に通う。
1928年(昭和3年)15歳
リューベックのヨハネウムに転校。
2月、異母兄弟ギュンター・クールマンが生まれる。それ以降、母親に「たまにしか会えなかった」。ブラントは振り返って、自身の青春時代を「ホームレス」、家庭環境を混沌としていたと述べている。
定期的に政治的なテーマに関する文章を発表するようになる。ユリウス・レーバーはブラントを支援し、彼の政治活動を奨励。ブラントは後に、この時期にレーバーが自分に決定的な影響を与えたと述べている。ジャーナリズム活動の結果、彼の学業成績は低下。
1929年(昭和4年)16歳
4月からは社会主義労働者青年団(SAJ)に加入、リューベック・カール・マルクス・グループのメンバーとしてユリウス・レーバーの支援を受けて急進的な路線を主張。
1930年(昭和5年) 17歳
ドイツ社会民主党(SPD)入党。
学校の教師が母親に「息子を政治から遠ざけてください。この子は才能がありますが、政治は彼を破滅させるでしょう」と忠告(この教師、クレーマー博士は後にナチスの台頭に絶望して自ら命を絶った)。
1931年(昭和6年) 18歳
ブリューニング首相の保守政権の政策を容認する党の姿勢に失望し、社会変革に対する「勇気の欠如」を非難。
6月、リューベックで17歳のビジネススクールの学生、ゲルトルート・マイヤーと出会い、恋に落ちた。彼女は社会主義労働者青年団(SAJ)の「フェルディナント・ラサール」グループのメンバーだった。二人は8年間交際を続けた。
10月、ドイツ社会主義労働者党(SAPD)に移籍。
リューベック=メクレンブルク地方のSAJ地区委員長となる。
SAPDは、1931年秋にSPD議会会派から分裂した左派社会主義グループと、テオドール・リープクネヒトを中心とする統一社会民主党(USPD)の残党やゲオルク・レーデブールの社会主義同盟など、SPDとドイツ共産党(KPD)の中間に位置する他の組織が結集して結成されたもので、大恐慌の始まり以来勢いを増し、ハルツブルク戦線で国家社会主義ドイツ労働者党(NSDAP)やドイツ国家人民党(DNVP)と連携していた反民主主義右派に対抗するための統一戦線として結成された。ブラントは、ドイツ社会民主党(SAPD)リューベック支部の創設メンバーであり、執行委員会のメンバーでもあり、その後、党全体の組織運営において数多くの役割を担った。

1932年(昭和7年)19歳
ヨハネウム卒業。アビトゥーア(大学入学試験)の願書で、希望する職業をジャーナリズムと記す。社会民主党(SPD)は当初、ブラントに大学進学のための党奨学金を提供したが、ブラントは党との意見の相違から奨学金を取り下げた。代わりに、1932年5月、彼はリューベックの船舶仲介、海運、運送会社F. H. Bertling KGでインターンシップを開始。
7.20 フォン・パーペン首相は緊急時法に基づき戒厳令を布告、プロシャ政府を解散。
その夕方、私はリューベックの社会主義労働者の集会で演説した。われわれは、社会民主党が最後のとりでの防衛のために大衆を動員し、ヒトラー政権に反対する全政党およびグループを打って一丸とする連合を結成して、 パーペン首相のクーデターに抵抗することを期待した。
しかし社民党は突撃隊と軍の威力に恐れをなし、直接行動を控えた。
しかし、今日では共和派の指導者が意味がないと見なしていた実力による抵抗が、決定的な意味をもっていたことは明白だ。たとえ、その戦いによって多くの生命が犠牲になったにせよ、それは少なくとも世界に対して、多くのドイツ人が民主主義を信じていたことを示したであろう。それはまた、共和派の勢力を団結させ、敗北主義と絶望感―それは民主左派の勇気をくじかせ、ヒトラーの独裁をより安定させたものであるのだが―を消滅させたであろう。
優劣の差をも物ともせず、 英雄的な戦いを敢行して敗れるのは悲劇だが、 戦わずして降伏することは悲劇を喜劇とするものだ。
1933年(昭和8年)20歳
1月、ヒトラーが首相に就任し、ドイツでナチス独裁政権が始まる。ドイツ社会主義労働者党(SAPD)は非合法化され、同党はナチス政権に対する抵抗を地下で非合法的に続けることを決定。
1.30 ユリウス・レーバーが逮捕される。
その後二週間というもの、私はほとんど眠る暇もなかった。抵抗の火を燃やさねばならなかった。他の都市にも、われわれと同じ考えの労働者が多くいるに違いないと私は考えた。この考えは間違っていなかった。レーバー釈放を求める一時間の抗議ストが印象深いほど整然と行なわれた。
それから二月十九日には、リューベック市の歴史上、最も強力なデモの一つが実施された。一万五千人が街の広場に集合した。新しい支配者の脅かしにも、かれらは驚かなかった。凍りつくような寒さも、かれらを追い払わなかった。レーバー夫人の奔走で、レーバーは釈放を許され、数日の保釈が認められた。かれは演説を行なわないという条件で集会に出席することが許された。
頭にホウタイを巻いて、壇上に現われたとき、かれはただ一語―「自由を」と叫んだ。聴衆はこの叫びを、要求以上のものに受けとった。それは一つの誓いであった。戦いは終わってはいなかった。いや始まったばかりであった。しかし実際には、これはリューベックにおける最後の自由なデモとなったし、私がレーバーを見たのも、これが最後となった。
2.28 ナチスによる国会議事堂放火事件
九日後の二月二十八日には議会大火事件が起こった。誹謗中傷や欺瞞やテロの横行するなかで実施された三月五日の選挙では、 ヒトラーは望んでいた多数を獲得することはできなかった。 その次の日曜日、わが党の国民大会がドレスデンで行われる予定だった。
社会民主党はすでに非合法政党にされていたので、 警察の目から逃れるため、 私は自分の身元をかくさねばならなかった。 私は学生帽をかぶり、たくみに変装して、ウィリー・ブラントという党名を使って旅行した。ベルリンで汽車を乗りかえねばならなかった。これが私の初めてのベルリン訪問であった。
複雑な気持ちで、私はベルリンの街をさまよい歩いた。いなか暮らしをしてきた多くの者と同じように、私はベルリンに対して反感に似たものを感じていた。 ベルリンの驚くべき生活力には驚嘆の気持ちでいっぱいだったが、 同時にこのドイツの首都に不審も抱いた。
カギ十字の旗で粗野に飾られたフリードリヒ街は、 謝肉祭のように俗悪そのものであった。 制服が街じゅうにうようよしていた。行進する突撃隊の隊列、そのオートバイの騒々しいうなりが街路をいっぱいにしていた。街全体が兵営のようだった。
私は労働者住宅地区のウェッディングへ行った。なんという違いだろう。そこは醜く、むきだしで、 長屋と太陽のささない裏庭のある果てしのない街路だったが、 その日はまるで、 それらが内なる光によって照らされているように思えた。旗やのぼりが一本もないので、全体に灰色を大きく浮きだたせていた。それは家々がその貧しさを恥じていないことを示そうとしているかのようであった。そこには悲しみの威厳といったものがあった。
ナチの勝利に対する怒りの感情は、ベルリンの大衆との深い親近感によって跡方もなく消えた。苦労にやつれた婦人、疲れ果てた労働者が頭を垂れて歩いていた。奇妙な静けさが街を重く悲しく満たしていた。この無言の抗議は私を深く感動させた。
ドレスデンの郊外の小さなレストランで開かれた会合では、致命的なニュース以外には何も出なかった。ある同志は行方不明になっていた。かれらは獄につながれているか、軟禁されていたのだ。拷問の話や殺人についても聞かされた。同志の幾人かは逃げようとして射殺された。われわれも常に最悪の場合を覚悟せねばならないとお互いに話し合った。しかし、この最悪の事態が実際に起こりうることを信じたくはなかった。しかし実際、それは予想した以上に悪いものでさえあった。
ユダヤ人迫害の最初のニュースを耳にしたとき、われわれは信じられなかったし、高まってくる怒りの感情を押えることもできなかった。ユダヤ人に加えられた恥ずかしめや、ひどい仕打ちも、そののちの恐怖にくらべるとまだ何でもなかった。
3月、SAPD指導部メンバーのパウル・フローリッヒのオスロへの出発を組織する任務を負うが、フローリッヒが逮捕されたため、オスロに組織の細胞を設立するという任務を引き継ぐ。それまで本名ヘルベルト・フラームとして知られていた彼は、ウィリー・ブラントという偽名を採用し、生涯にわたってこの名前を使い続けた。
早暁、われわれはデンマークのロランド島の小さな町、レードビーハブンに向かって出帆した。この船旅は私の生涯で最悪のものだった。海上は荒れ、私は船酔いに苦しめられ通した。やっとのことで上陸しても、ほとんど立つこともできなかった。強いコーヒーを二、三杯、それも友人がブランデーをかなり入れてくれたのを飲んで、やっと私は人心地をとりもどした。こうして私は、カバン一つと百マルクを持って自由世界に上陸した。
