1948年(昭和23年)35歳

ブラントは、戦後ドイツのベルリンで、エーリッヒ・ブロストの後任として、1948年1月にSPD党執行部の代表として政治キャリアをスタートさせた。彼の「ベルリン事務局」は、ハノーバーの党委員長クルト・シューマッハーと連合国当局、ベルリンのSPD州協会との連絡を維持し、党執行部への勧告を作成する責任を負っていた。
ベルリン・ヴィルマースドルフのブラントの党事務所とベルリンのSPD東部局の間には組織的なつながりはなかったが、協力は密接だった。例えば、ベルリンの党執行部は、東部局への訪問者で、自分たちに知られていない人物が「適切な審査プロセス」を経て初めてブラントと面会することを許可した。
7.1 要請により、シュレースヴィヒ=ホルシュタイン州政府からドイツ国籍が返還され、 1948年9月24日に発効。これによりノルウェー国籍も失効(ドイツとノルウェーの二重国籍は2020年1月1日まで認められていなかった)。
9.4 ルート・ベルガウスト(旧姓ハンセン)と結婚。
10.4 長男ペーター誕生。
ブラントは1941年5月にノルウェー人カルロータ・トルキルゼンと結婚し、1940年10月30日には長女ニーニャが生まれていた。
1949年(昭和24年)36歳
要請により、ベルリン警察長官が名前をウィリー・ブラント(Willy Brandt)に変更することを承認。
2月、ヴィスムートでのソ連のウラン採掘に関する記者会見など、東部局の活動結果を国際記者会見で発表。 SOPADEの覚書は、ソ連占領地域(SBZ)の非合法SPDメンバーから提供された情報に基づく報告に基づいており、学術的な分析の形をとっていた。
ブラントはハノーバーの党執行委員会に宛てた手紙の中で、これらの覚書を、時には彼らの要請に応じて、西側3軍政のさまざまな「事務所」にも転送したと述べている。
ブラントの前任者であるブロストは、1947年2月に米国の情報機関と初めて接触し、支援を要請したが、東局のSBZにいる協力者によるスパイ活動は明確に否定していた。この支援には、とりわけ、東局のSBZにいる協力者向けのタバコやカミソリの刃などの代替通貨の提供が含まれていた。党執行委員会は、東局の職員が米国の情報機関のために「副業」も行っていたことを認識していた。東側は東局をスパイ活動の中心とみなし、ブラントをその主要職員の一人とみなしていた。
1948年に既に分断されていたベルリン市(西ベルリンのみ)で選出されたベルリン市議会は、 1949年に社会民主党(SPD)の代表として、議員のヴィリー・ブラントを最初のドイツ連邦議会に送り込んだ。
1950年(昭和25年)37歳
12.3 ベルリン市議会議員に選出され、第5期 議会の任期終了まで務めた。
1955年(昭和30年)42歳
市議会議長に選出。1953年から1957年まで第2期連邦議会に、そして1961年末にわずか数週間だけ在籍した第4期連邦議会に送られた。1969年の連邦選挙から1992年に亡くなるまで、彼はノルトライン=ヴェストファーレン州の比例代表名簿を通じて連邦議会議員となった。彼は1971年3月14日のベルリン市議会議員選挙には立候補しなかった。
1956年(昭和31年)43歳

ハンガリー蜂起の暴力的な鎮圧後、 1956年11月にベルリンでいくつかの反ソ連デモが行われた。これらのデモの一つで、ブラントは他のベルリンの政治家とは異なり、「強い言葉」で立場を表明し、「民衆の支持を得た」。
その後、彼は東ベルリンのソ連大使館に向かっていたデモ行進の先頭に立ち、制御不能に陥る恐れがあったデモ行進の方向転換に成功し、「極めて爆発的な状況」を鎮静化させた。ベルリンの報道によると、ブラントはこうしてベルリンで政治的な突破口を開き、将来の「知事」と見なされるようになった。
一九五六年十一月、私はあまり望んでいなかったような仕方で、とつぜん前面に押し出された。それはベルリンのはるか彼方、ハンガリーで起こった事件の反動であった。ブダペスト反乱の野蛮な鎮圧に抗議するために、ベルリン諸政党は人びとにシェーンベルクの市庁前でデモを呼びかけた。ハンガリーからの報道は東ベルリンの暴動を思い出させ、 十分になおっていない傷口がパックリ口をあけたのである。その夜、十万もの人びとが集まったが、大多数の人の気持ちは重く、苦しげな表情をしていた。無力感-ブダペスト市民も三年前の東ベルリン市民と同様、西欧から見捨てられるだろうことがわかっていたので、かれらの怒りはいよいよ高まった。
あのような集会で話をするのは大変むずかしい。善意の言葉には反響がない。社民党議長もヤジリとばされ、軽蔑された。キリスト教民主同盟の議長エルンスト・レマーもうまくゆかなかった。話を聞きとるのさえ困難だった。分別や理性への呼びかけも失敗し、群衆は「行動」を欲していた。不満の声があちこちから聞こえた。 群衆のなかで、 だれかが叫んだ。 「ブランデンブルク門へ行け」「ソ連大使館へ行け」「ロシア人、ゴーホーム」
最初の予定にはなかったのだが、私は演説者として立った。ある種のスローガンは実行されてもわれわれの助けにならず、ハンガリーの自由の戦士のためにもならないことを強く私は警告した。東地区への無謀な行進を避けるために、私はシュタインプラッツへ行進し、スターリン主義の犠牲者の記念碑前でデモをするよう頼んだ。多くは私について来たが、他の者は家に帰った。シュタインプラッツで私はこの時の気持ちを適切に表現する言葉を見つけることができた。「良き友よ」と歌い出した時も、みんな声を合わせてくれた。
その時、 とつぜん驚くべき知らせが来た。 三千人のデモ隊(大部分は青年たち)が列を組んで手に手にタイマツを持ち、ブランデンブルク門に向かったというのである。他の大部分は西ベルリン警察によって「六月十七日通り」で止められたが、流血の衝突が起こり、刻一刻と事態は危機的様相を帯びてきた。
ルートと私は車にとび乗りティーアガルテンへ向かった。最悪の事態を防がねばならない。最悪の事態とはソ連地区の境界での暴力的衝突である。ブランデンブルク門では人民警察が緊急態勢を整えて並んでいたばかりでなく、ソ連軍戦車もリンデン通りを走っていた。もしソ連軍が襲われ、銃撃が始まれば、それは戦争を意味するものであった。
窓ガラスのこわされた警察の治安専用車から、 私はマイクをにぎって怒り狂う群衆に呼びかけた。大多数は学生や青年で、かれらの意図の誠実なことは疑うべくもなく、その気持ちも十分理解できた。お互い同志争って第三者の介入を許せば、ロシア人の思うままになってしまうぞ、と私はぶっきらぼうに話して聞かせた。
警察のバリケードへの圧力はゆるんだ。ルートは群衆から抜け出して、まわりに分別ある学生を集めた。かれらは群衆を鎮めるのを手伝ってくれた。理性が群衆を押えた。やっとここでも「神よ、仲間よ」と歌える瞬間がきた。何秒か前には激しく争ったデモ隊も警察官も声を合わせた。
ちょうどこの時、私はすぐにブランデンブルク門に来るようにとの伝言を受けた。そこの状況は危険な頂点に達していたのである。 私が到着したときには、 警視総監みずからデモ隊を散らすのに成功していた。私は車の上にとび乗り、流血の衝突はハンガリーの人びとを助けもせず、戦争を引き起こすだろうと話した。
私は行列の先頭に立ち、西ベルリンにあるソ連戦争記念碑前を通っていった。ここで私は反抗の意をこめてドイツ国歌を合唱するように呼びかけた。政治の緊張した時には、ドイツ人が歌好きなのは大変役に立つことがある。
途中私は、襲撃された何人かの英国憲兵に出会った。西ベルリンの若者たちは、ちょうどハンガリー事件と時を同じくしたスエズにおける英国の干渉に対して、かれらに罪を償わせようとしたのである。何日か後、私は不幸な目にあった憲兵や士官たちを招きビールを飲んだ。かれらは寛大で知性のある態度を示してくれた。
ハンガリーに対するデモが、 ベルリンに致命的にならずにすんだのは私の力ではない。 あのような状況では個人の力は-何をしようと-あまり問題にはならない。大衆の行動はそれ自体の法則によって方向づけられている。成功したと主張できるには、なによりも幸運と外的状況の救いが必要なのである。
しかしあの晩は、 ルートは私がベルリン市民の心をとらえるのをたしかに助けてくれた。 私たちは割りこんでいったとき、ただ悲劇を避けたいとそればかりを念じていた。あとで、夜になって事務所で友人とすわっていたときにも、ヒロイックな気持ちは全くなかった。ルートは当時、人びとの頭にしのびこんでいた迫り来る戦争にきわめて敏感だった。 ハンガリーとスエズの一致は致命的だった。
ベルリンは大きなドラマのきわめて小さな役割を演じただけであった。