北川景子という人は、1986年8月22日生まれで、神戸市育ち。医者になりたくて大阪のミッション系私立女子中学(けっこう名門)に入り、高校2年(17歳)の時にスカウトされて、芸能界に入る。
本人はこのように語っている。
小さいころから、人の役にたつ仕事がしたいっていうふうに思っていたので、「人助けをできる」ってことは「お医者さん」なんじゃないか……って小っちゃい頃に思ってからは、ずーっとお医者さんになれたらいいと思って、勉強していたので……。
高校2年生の夏を過ぎたら、みんなも頑張るから(成績が)なかなか上にあがれないなあっていうふうに、スランプに思ってて、このままだと、幼稚園のときからずっと「お医者さんになって、沢山の人を助けるんだ」っていうふうに勝手に思っていたけど、「これ大学も受からないかもしれないなぁ」っていうふうに悩んでいる時だったんですけど、そんな時に突然スカウトされて、「もう今まで通りの生き方を一回やめてみろ」っていう、なんか神様のそういう徴(しるし)というか、アドバイスなんじゃないかっていうふうに突然思って…。
大学受験をしようと勉強ばかりしていて、部活もせずに予備校に通っていました。勉強、勉強の日々。それなのに、中学ぐらいまで調子がよかった成績は高校ではなかなか上がらなくて、高校に入ってからというもの、めっきり上手く行かなくなった。勉強ばかりしている生活は、もしかしたら間違いなのかもしれない…、間違ったことを自分の夢だと思い込んでいるのかもしれない…。そんなときにスカウトされたんです。環境が変われば自分の本当の道が開けるとも思っていたので、そのときのスカウトがもしもサーカス団だったら、今頃はサーカス団にいたかもしれないですね(笑)
父親は厳しい人だったが(「99点を取っても1点どこで忘れてきたんだ!と言う人でした」 )「小学校のとき私立中学を受験したいと言ってきて以来、おまえの方から何かしたいと言ってきたことはなかった。だから、やりたいんだったらやれ」と許してくれた。
話は遡るが、彼女は、7歳のときに、神戸で阪神大地震を経験している。そのときの体験をこのように語る。
BS特集番組で語る北川
両隣が全壊とか半壊とかで(人が)亡くなっていたり、もう、すぐ火が迫っていたりとかして、瓦礫の下から人が“助けて”って、そこを弟と一緒に逃げて、“見ちゃダメ”って。助けてたら死ぬって。……それは今でも、どっちが正しかったかとは思いますけど、火と、あと煙がすごくて(口元をおおう)みんなこうやって逃げて、戦争と思いました、最初は。地震とかじゃなくて
(そのとき、助けなくて良かったのかなって)まあ、たぶん一生、それはつきまとう罪悪感だと思います。だから、そうして、姑息とまではいかないんですけれども、逃げたぶんは、なんか役割をはたさなきゃいけないじゃないですか。きっと。そこで生かされたからには
その時は、もう、毎日考えるのは、生かされた意味というか……。“どうして助かったの”って弟に聞かれて、とっさに答えたのが、“なんか、仕事があるんやろう、私らには”って。“何の?”って言われたけど、“わからんけど何かあるんやろ”って、言ったんですよ。“何かしなきゃいけない”って。変な話だけど、一回死んだもんだと思って、何でもやれば、どんなことでも乗り越えられるんじゃないかって、思ったんですよね
芸能界に入り、当初はセブンティーンのモデルに選ばれたり、『セーラームーン』に出演したりと注目を浴びたものの、その後はあまり仕事がなく、オーディションには100回以上落ちた。
本人のブログによると、
この小説(註:ノルウェイの森)を最初に読んだときは上京して一人暮らしを始めたばかりで、こちらに友達と呼べる存在もおらず、毎晩部屋で答えの見つからない問題についてひたすら考えていました。
いま自分がどこにいるのか、何をしているのか、
自分という人間は何者なのか、
自分は今何をするべきなのか、どうあるべきなのか、
自分の存在は果たして正しいのか間違っているのか、
そんな疑問で押しつぶされそうになり
煩悶とした日々を送っていました。
思春期だったといってしまえばそれまでなのですが
あの頃が一番精神的につらかったなぁと今でも思います。
仕事、受験、自分、いろんなことに真っ向から向き合おうとしてぶつかっていました。
生きることの意味、人生の意味、いつかやってくる死の意味、
愛すること、愛されることの意味、
そんな普遍的なテーマについて悩み、苦しんでいた気がします。
テレビ番組で紹介された彼女の自室の書棚には、ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』と聖書が置かれていた。
単に仕事がない悩みばかりではなく、深い実存的な問いを追求していたのである。
芸能活動をしながら、都内の通信制高校を卒業し、明治大学商学部を受験し合格。大学では経営学、財政学、中国語などを学び、4年間で無事卒業を果たしている。それだけ書くとあっさりしているが、これは実際にはかなり大変なことである。
やがて映画出演をきっかけに注目されるようになり、若手女優として脚光を浴び、ブレイクするようになってからの活躍は周知のとおり。
彼女にとっての初期の重要作である映画『間宮兄弟』では、沢尻エリカと共演。監督の森田芳光を知り深く尊敬するようになる。
2008年12月の本人ブログより:
初めて森田監督にお会いしたのが間宮兄弟のオーディションの時で、私はまだ18歳でした。
あれから4年経ち、私は22になり、その間に映画やドラマなどいろいろな仕事をさせていただきましたが森田監督に会うと今でも18の頃の自分に戻ってしまいます。
久しぶりの森田監督は全くお変わりなく、いつもの暖かい笑顔で出迎えてくださいました。
森田監督は、自然に周りにいる人たちみんなを幸せな気持ちにさせるようなそんな不思議な人だと思います。
森田監督の人徳というかお人柄だと思いますがいつも監督の周りでは笑いが絶えません。
間宮兄弟で森田監督に出会い、演出していただいてから私は本気で"女優になりたい"と思いました。
その時はほとんど映画出演の経験も無かったので、うまく出来ない事が悔しくて、もっと監督に良いところを見せたくてジレンマを感じたことを今でもはっきりと覚えています。
それからというもの"もう一度森田監督と仕事がしたい"という一心で積極的にお芝居に取り組んできました。
私に将来の夢と目標を与えてくださった森田監督を、私は18の事からずっと敬愛しています。
その森田監督が2011年の末に亡くなり、今年1月の葬儀で人目もはばからず号泣していた様子がテレビで大きく報道されたのはまだ記憶に新しい。
そのときのコメントを以下に引用する。上のブログの文章と比べれば、彼女の想いがまったく嘘偽りのないものであることがよく分かる。
葬儀でのコメント:
「『私のことを誰だか分かりますか?』と質問され『すみません、分かりません』と答えたら、『監督の森田です』って笑ってくださった。このオーディションだめだなって(落ちたと)思ったけど、拾ってくださって、女優としての生活が始まったので恩師のような方。お慕いしていたので残念という言葉だけじゃ言い表せない、偉大な方でした」
「どのような女優になったらいいかと監督に聞いたとき、『ありのままの北川さんがすてきだと思う。素直に、やめないで女優を続けて』と言ってくださった。そのおかげで頑張れてこられた。とても大きな存在です」
彼女は芸能活動の当初からブログを公開しているが、上に引用したいくつか文章でも分かる通り、とにかく長文である。しかも内容も濃く、しばしば重い。
その文章力が買われ、今年の『文芸春秋』5月号には、彼女の随筆『瀬戸内にて』が掲載されている。
危篤になった曾祖母に一目会おうと岡山から電車を乗り継ぎ急ぐ中の、曾祖母の思い出を取り混ぜた心象風景が、なかなか巧みな筆致で描かれている。名エッセイストになれる素質を感じさせる。
さて、随分長々と語って来たが、これらは語るべき彼女の魅力のほんの一部にすぎない。
というか、イントロダクションでしかない。
北川景子の最大の魅力は、実は彼女がとてつもない変人であるということにある。
それについてはまた次の機会に。