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がんばれ元気 その後

昨日の記事を書いて、自分の中で長年の問題(?)に整理がついた気がしたので追記しておく。

それは、『がんばれ元気』のラストで、芦川先生が、元気と関拳児のどちらも選ぶことができずに、ヨーロッパに旅立ってしまうが、その後どうなったのかという問題である。

自分は長いこと、いずれ芦川先生は日本に戻ってきて、元気と結ばれるのだろうと思ってきた。

しかし、昨日の記事を書いてから、どうやらそうではなさそうだと思うようになった。

というのは、『がんばれ元気』という漫画の描く堀口元気の5歳から19歳までの物語を、元気の持つボクシング(修羅の世界)という業(宿命)からの解放に至るプロセスと捉えるなら、拳児との戦いの終結をもって、ボクシングに関わる縁(すなわち「堀口元気」としての人生)は清算され、新たな「田沼元気」としての人生が始まるという解釈になる。

そして、芦川先生という存在もまた、これをもって元気の「教師=守護者」としての役割を果たし終えたのだと考えるのが正しいのだと思った。

 

19歳までの元気の人生は、元気にとって「死者との因縁による束縛」を意味するものであったが、芦川先生にとっても、「一人の女として生きることに対する束縛」を意味するものだったのである。

元気は、父親と三島の宿敵(敢えてそう表現する)である関拳児との戦いによって、自力で因縁を清算することができるが、芦川先生は、元気を通じてしか過去の自分を清算することができないという立場にあった。だから二人は同じ目標に向けてパートナーとして協力し合った。

これはある意味残酷な表現ではあるが、堀口元気」が「田沼元気」になってからの人生において、芦川先生が果たすべき役割はもう存在しないのである。

逆に、芦川先生は、元気の行為によって「過去に束縛される人生」から解放され、一人の真に自立した女性(人間)として生きていくことができるようになったのだといえる。

 

さて、『がんばれ元気』の原作では、元気に残した手紙しか明かされていないが、芦川先生は関拳児にも手紙を残しているはずである。

そこには何が書かれていたのか。

おそらく、三島栄司や堀口元気を巡る二人の因縁について言及したうえで、「今は結論が出せない」と、元気に対するのと同様の答えが書かれていたに違いないと思う。

 

では実際、芦川先生は元気と関のどちらに惹かれていたのか。

もちろん想像(妄想)の域を出ないが、関拳児の方であると今は思う。

実際に原作においても、元気に「関さんのことを好きなんですか?」と聞かれて、「ええ」と答えているし、「私だって結婚を考えるし、恋もするわ」と言い、関と海道戦の後で再会し、何度もデートに誘われても拒んでいない。

もちろん、元気(と三島)への思いから、ある種のうしろめたさはあっただろうが、それでもなお関拳児に惹かれていたからこそ会ったのだろう。

拳児は、芦川先生が自分の前から姿を消して以来、毎年、彼女の誕生日をたった一人で祝うほど思い入れが深い。再会した時には、10年間以上「あなたのことを<片時も>忘れたことはなかった」とまで言っている。単に当時関が芦川先生を好きだったというだけでなく、よほどのことがあったと思わせるに足る発言である。

生前の三島によれば、関と三島は、芦川先生を賭けて対決し、関が勝利したが、芦川先生は関ではなく、やくざの用心棒に身を落とし、ボロボロになった三島を選んだ(馬鹿な女だ)と語っている。

発言から推測するに、関VS三島戦の後、三島はいったん芦川先生の前から姿を消し、極道の道に転落した後で、芦川先生と再会した(発見された)のではないか。そしてその間、芦川先生は関からの誘いを受けて、いなくなった三島のことが心に残りつつも、関と交際していた(あるいはその直前にあった)と考えられるのである。

関と芦川先生は、両親を亡くし天涯孤独の身であるという共通点もある。互いに言葉を交わすうちに二人の間に浅からぬ共感が芽生えたとしても不思議ではなかろう。

しかし、三島の堕ちた姿を見た芦川先生は、関の前から姿を消し、三島と一緒になることを決意する。芦川先生のことだから置き手紙くらい残したかもしれない。そこにはたぶん、「今の三島さんには私が必要なのです」と書かれていたのかもしれない。

一方三島は、プライドが邪魔をして、芦川先生の愛を素直に受け入れることができない。極道に堕ち、これまでの知人・友人・親類縁者とも縁を切り、彼女を幸せにすることのできない自分を早く消し去るために、わざと不摂生な生活を送り、死に急ごうとした。元気と出会った頃には、すでに肉体の病は取り返しのつかないまでになっていた。

芦川先生は、三島が死んだあと、三島からの手紙を焼きながら、「忘れてあげるの。三島栄司、あの人は弱い人よ。あの人は本当にはボクシングを愛することはできなかったし、一人の女すら愛することができなかったのよ」と元気に語っている。

しかし芦川先生は、本当に三島だけを愛していたのだろうか。少なくとも、堕ちた三島を見た後からは、その愛には憐憫の情(そして自責の念)が交ってはいなかっただろうか。三島を選んでからもなお、芦川先生が関拳児に惹かれる気持ちが失われたとはいえないのではないか。そして三島も、そのことを敏感に感じ取っていたからこそ、彼女を突き放すような態度を取り続けたのではないのか。

 

ところで、芦川先生の元気に対する愛は、少なくとも物語の終盤までは、いわば精神的な血の繋がりを持つ縁者に対する愛情以外のものでははかったように思われる。

元気が成長し、芦川先生に恋人としての面影を求めるようになるにつれて、彼女の中に葛藤が生まれる。そして、彼女自身も元気の中に三島栄司の面影を求めていたことに気づく。

 

二人の想いが一線を越えるのは、関との決戦前夜のことである。

このとき芦川先生は、皮肉なことに、人生(前半生)の目標を果たそうとする元気への誘惑者としての姿を見せる。彼女は、「愛する人が戦うのをこれ以上見ることは耐えられない」「逃げよう」と元気を促すのである。

ここで元気が誘惑に屈していたら、元気の「解放」は達成されず終わっていたし、それは彼女自身の束縛を一層強めることになっただろう。一言でいえば、二人は不幸な人生を過ごすことになっただろう(あるいは人生に終わりを告げていただろう)。

このとき、彼女は、「闘争心をむき出しにした関さんは本当に怖いボクサーよ」と元気に言い含めている。かつて三島は「闘争心をむき出しにした関」の犠牲になり、人生を狂わせた。その目撃者(当事者)だからこそ、この台詞にはリアリティが籠っている。

『がんばれ元気』という物語の真のクライマックスはこの場面である。

それまで元気の達成を応援し続けてきた最高の導きの天使が、最後の最後になって、最大の誘惑者へと変貌した。

彼女に促されて、元気がモーテルへと車を走らせ、駐車場に車を止めてからの数秒間あるいは数分間の中に、この物語の全てのエッセンスが凝縮されている。

この、作画の中に描写されていない「無」の中に、この物語のすべてが詰まっている。

結局、逃げずに運命に立ち向かうことを選んだ元気。

その首に取り縋って、芦川先生は叫ぶ。

「そうなのよ!男の人は・・ボクサーは・・結局、女には逃げられないのよ!!勝手に勝負に愛までかけて・・・ そのくせ逃げては来てくれないのよ!!」

この叫びは、元気だけではなく、三島栄司(ひいては関拳児)に対する彼女の本心でもある。

三島に対してはずっと「耐える女」を演じ続けてきた芦川先生が、このとき元気に向かって、初めて一人の女として、長年抑えて続けてきた心の底からの想いを吐露したのである。

 

で、最初の話に戻る。

「芦川先生は元気と関のどちらを選ぶのか?」

この問いの立て方は間違っている。

なぜなら、彼女には、「選ぶ権利」はないからである。

「田沼元気」の人生には、もはや芦川先生の果たす役割はないのだから。

このことは、故郷の駅に降り立った元気の爽やかな表情の中に何よりも示されているではないか。

そして、関拳児以上に彼女を必要としている人間は、もうこの世に存在しないのである。

芦川先生は、元気との戦いで闘争本能を燃焼し尽し、穏やかな人格者となった関拳児が、生涯の愛を捧げるに足る男であることに遠からず気づくことであろう。

そして田沼元気は、これからの彼の人生にふさわしいパートナーを遠からず見出すだろう。

(個人的にはそれが石田とも子であってほしいと思うが、火山尊の存在がちと厄介)

かくして物語の輪は閉じられる。

チャンチャン。