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ドストエフスキー体験

自分がドストエフスキーを初めて読んだのは18歳のときだが、当時のノートにはこう書きつけてある。

とにかく圧倒的におもしろく、最後までぶっとおしで一気に読み通した。とにかく圧倒的におもしろい。つべこべ言う前に、とにかくおもしろい。小説とはこんなにおもしろいものだったのか。知らなかった。これ以上つべこべ言いたくない。おもしろいものはおもしろいのだ。それで充分だ。彼についての、思い込みたっぷりの評論など必要ない。彼の他の作品も強烈に読みたくなってきた。読んでやる。

確かに、ドストエフスキーの小説の主人公はぼくとあまりに酷似している。

しかし、彼に対する評論などどうでもいい。とにかく、掛け値なしに「おもしろい」のだ。日本にはこんなおもしろい小説はない。(と断言していいものかどうかよくわからんが)

リアリズムとはまさに彼の作品のことだ。「人間」が、ありのままに、本当に驚くほどありのままに描かれている。思想小説? 怪奇趣味? 全然違う。

例えば、宇宙人がぼくに地球の人類とは一体何物であるかを尋ねたら、まず「罪と罰」を読ませよう、それくらいの小説だ。

彼の作品に「人間」がありのままに描かれている、と断言できるのかどうか、今の自分にはそう言い切る自信はなくなっているが、当時は主人公のラスコリーニコフに完全に感情移入しながら読んでいたのは確かだ。

30年ぶりに読み返して、今はラスコリーニコフではなく、スヴィドリガイロフに感情移入していることに気づく。

それが正しい読み方だとか、ラスコリーニコフは所詮青二才だとか(それはそうなのだが)、今の自分が無為淫蕩の生活に堕した中年男だとかいうことが言いたいわけではない。

ただそういう風に今の自分は読んだというだけだ。

秋山駿という評論家が、『私の「罪と罰」』という本の中でドストエフスキー体験について語っていて、自分も含めて共感する人は多いのではないだろうか。

それは、時が停っているような、薄暗い、陰気な古本屋の書棚の前であった。私は別にどうという訳もなく、ただ題名につられたのか、本のページを開いて読み始めると、そのまま30分以上も立ち読みした。それは内田魯庵訳の『罪と罰』であった。ページの中で、ラスコリーニコフが、下宿の部屋を出て街へと歩き出していた。その歩行の音調が私の胸にひびいた。

…たちまち、徹夜して読み、私は興奮した。翌日は何もしないでただ部屋に籠っていたように思う。頭に血が昇ったような感覚だったことを、いまも覚えている。本を読んだ、というより、自分が生きているということを意識しつつものを考える、それを、初めて経験したのだ。だから、本を読むというより、本を読みながら自分が思い感じたことが、まるで子供が白紙の上に初めて描く絵のように、すべて胸に刻まれた。

実は、と、ここで打ち明けるのだが、私はこの数十年、『罪と罰』という本を読み返したことはなかった。なぜか。ここらが自分でも思う私の病者的な傾斜なのだろうが、私は、最初に読んだときの感動が、あまりにも大切だったので、後に生きて動揺する心の触手がそれを傷つけぬようにと、封印してしまったのである。

(『神経と夢想 私の「罪と罰」』秋山駿 より)

自分は、正直に言って、この数十年、他人がドストエフスキーを語っているのを読むのさえ嫌いだった。自分にとって神聖とさえいえる大切なものを他人の触手で汚されるような感覚を覚えるからである。

ちなみに、この秋山駿が『私の「罪と罰」』の中で語っている内容はほとんど自分と見解を異にしていると言わなければならない(特にスヴィの部分)。

それでも、ほとんど共感できた箇所がひとつあったので、後日それを引用する。