INSTANT KARMA

We All Shine On

Prayer by a non-believer

明け方に目覚めて眠れないので、某文学系ユーチューバーの大江健三郎追悼トークを聴いていたら、その人のおすすめ作品ナンバーワンは『われらの狂気を生き延びる道を教えよ』で、『個人的な体験』はピンと来ないと言っていて、感性は読者によりそれぞれ違うものだなと思った。

『個人的な体験』のラストの手術後の描写は不要ではないか?との批評は当時からあり、英訳の出版の際にもイギリスの出版社から削ってはどうかと示唆されたという。

確かに実質的には小説としては病院へタクシーを走らせるところまでで終わっていて、最後はまあ付け足しみたいなもんだろう。ただ著者にとっては必然だったということだ。ドストエフスキー罪と罰もシベリア以降は説得力に欠けるという意見もあるようだが、あの小説も実質的にはエピローグの前で終わっている。

土壇場での回心の部分がこの作品の全てで、それに向けてそれまでのすべての描写がある。自分の中では志賀直哉『和解』と並ぶ私小説の傑作という感想。

罪と罰』では、ラスコリーニコフは自白した後も回心せず、エピローグに至ってシベリアでソーニャの愛に触れて目覚めるということになっているが、『個人的な体験』では鳥(バード)が啓示を受けたかのように単独で自覚する。ラスコリーニコフが自覚するのは犯してしまった罪のことだが、鳥(バード)は罪を犯す前の自覚といえる。

小林秀雄三島由紀夫の『金閣寺』を、犯罪行為をやるまでの小説で、『罪と罰』はやった後の小説だと言っていたが、大江の『個人的な体験』は、「やる前に回心した小説」といえるかもしれない。尤も、赤ん坊を堕胎医に預けた時点ですでに事実上は「やってしまった」といえるかもしれないし、すでに取り返しのつかないことになっていたという別のラストも書いたらしい。またバードは「自らの手で」赤ん坊を殺すことなしに、他人の手に委ねたという意味で、ラスコリーニコフらとは違う。バードは、向き合ったと言えるためには自らの手でやるか引き受けて共に生きるかしかないとヒミコに言っており、「罪を犯すかどうか」ではなく「(現実から)逃げない」という態度に力点を置いている。

この小説のテーマは「のっぴきならない現実から逃げずに向き合う」ことを通してバードがそれまでの幼児的な甘えの世界から抜け出すということにあると考えれば、それまでの大江の作品(『奇妙な仕事』から『飼育』『われらの時代』『セヴンティーン』『性的人間』を経て『空の怪物アグイー』に至るまで)は子どもの甘えの世界に属するものであったともいえる。

澁澤龍彦は「インファンテリズム(幼児性格)ともいうべき大江の心理的傾向は、私には明らかなように思われる」と喝破し、大江小説の主人公はまことにナイーヴな、ほとんど意志をもたない人間である代わりに、自己処罰の欲求があり、『個人的な体験』では、大団円に恩寵の光があらわれて、自己処罰の欲求は不幸にも(?)裏切られる結果になる、と皮肉な書き方をしている(ちなみに大江はそれまでの小説で恋人の妊娠と堕胎というテーマを繰り返し取り上げていて、大江の幼児性を指摘する澁澤は現実の人生で配偶者に何度も堕胎をさせている)。

初期の大江作品は、残酷で重苦しい現実を前にした閉塞感(『奇妙な仕事』、『死者の奢り』)と、現実からの否応なしの暴力的な介入による幼児的世界からの離脱(『飼育』)を描いていた。『個人的体験』では、いよいよ私生活においても、のっぴきならない現実(障害を持つ子供の誕生)に直面させられた大江が、苦悩と逃避の挙句に(「恩寵の光」により?)現実を受け入れる決断をするという筋書きになっている。

澁澤龍彦が「恩寵の光」と呼ぶ決断に至る苦悩と逃避の過程がどこまでリアルに描かれているかがやはりこの小説の核心だと思う。

冒頭に書いたユーチューバーは、大江の小説の凄さは「異なった信仰を持つ人々の間に相互理解可能なかたちで物語を提示できる才能」にあると語っていて、なるほどと思った。

大江がクリスチャンの大学に招かれて聴衆に向けて語った講演録「信仰をもたない者の祈り」は、そんな大江の語り口が味わえる、いい講演だと思う。

youtu.be

「この現実世界からの、地つづきのリアリズムを保って、そして超越的なものに向かって、ゆきたい」と書いた大江の特色がよく表れているこの講演については、改めて感想を書きたい。