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理由なき殺人

理由なき殺人には、そもそも、目的というものがない。金品奪取は、理由なき殺人を現実化=実現するための、見せかけの口実、いわば偽りの理由にすぎない。だから、彼は、盗品が何であるかを知りたくもなければ、財布の中身を見もしないのである。

 

では、何のための殺人か? 金貸しの老婆のところに無意味に金銭の山があり、その金銭を使えば何人かの生の苦痛が救われるという、犯罪計画物語の「思想」、それはどうなるのか? なるほど、それは、実行しやすい一つの思想には違いない。しかし、この思想には、「思想」のために人を殺してもよいのか、という自己否定が欠けている。そんな思想は、一人のソーニャほどにも、人間的に深くもなければ、よく生きてもいないのである。

 

「思想」そんなもののために、ラスコリーニコフは、人を殺すのではない。思想によって人を殺すのは、小説上なら簡単なことだ。だが、彼は、自己惑乱するほどに苦しんだ。

 

思想や、原理のためにラスコリーニコフは殺人を犯す、という、欧米のあらゆる文芸批評家に私は別れを告げる。あなたがたの方が賢いのでしょうね? でも、知識人よ、さらば!

 

ラスコリーニコフの理由なき殺人は、小説の順序を逆にしてよければ、一人のソーニャの存在を、凝視するところから発したのである。いったいこれは何か、どういう意味の存在か、こんなことが在っていいのか、許されていいのか、なぜ彼女は平然と生きているのか、それでは生とは何か、人間とは何か―考えに考えたあげく、考えが絶体絶命の一つの問いと化したとき、ついに「一歩を踏み越えた」のである。考えの内部で自分が苦しんで死んでゆくこと、あるいは、自分を殺すこと、そんなことは容易だ。だが、そんなことでは、自分の抱いたこの疑問の解決にはならぬ。どだい、こんな考えに、解決はあるのか? 解決なぞあるまい。しかし、疑問だけは、確かに、ここに、自分のところに在る。では、たった一つの最後の手段として、そんな自分を、一つの窮極の問い、と化すことが可能だ。だから、問いに自分を賭ける。賭けの内容は、自分の手で「一人の人間を殺す」ことであった。社会はソーニャのような存在を、ゆっくり、かつ平然と、かつ普通に、殺してゆくではないか? 私はその要点と急所を実行してみせた。さあ、何物かが、この私の殺人の行為に対して何かを答えてみろ、答えるその何物かとは、いったい何なのか? その正体を見てやろう! これが、「一歩を踏み越えた」の意味である。

 

秋山駿『神経と夢想 私の「罪と罰」』より