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Midnight Express

年末年始は予定通り引き籠って沢木耕太郎深夜特急』を一気読みした。

 

深夜特急ノート』と『246』も読んでみたところで、『深夜特急』とは全然関係のない、ちょっとした下世話な好奇心が頭をもたげてきた。

 

沢木が初めて海外の土地を踏んだのは1973年の韓国だが、『深夜特急』に描かれているユーラシア横断バス旅行を行ったのは1974年から1975年にかけてである(彼は自分が旅に出た時の26歳という年齢を繰り返し強調している)。沢木は旅先から主に4人の知人に向けてこまめに手紙を書いていたというが、その中には当時付き合っていた恋人も含まれていたと思われる。タイで彼女からもらった根付を盗まれたことを手紙に書いた旨の記述がある(この恋人が後の妻かどうかは分からない)。

沢木が結婚したのはこの旅から戻った1975年から1979年の間である。というのは、引退する藤圭子へのインタビューが行われたのが1979年で、その時点で沢木は既に妻帯者であったからだ。

 

沢木は、『一瞬の夏』を朝日新聞に連載していて。その仕事が済んだらニューヨークに行ってコロンビア大学に留学すると藤圭子に告げていた節がある。

沢木が『一瞬の夏』の執筆を中断し、藤圭子とのインタビュー原稿を一気に仕上げたのが1980年5月である。

 

アメリカの大学は9月からスタートするので、藤圭子は8月30日までにニューヨークに着けばいいと1980年7月付の沢木宛の手紙に書いている(『流星ひとつ』あとがき)。結局沢木は行かず、失恋した(?)藤圭子は歌手に復帰する道を選んだ。しかも芸名を改名するということまでして。喉を手術して声が変わったので以前の藤圭子ではないという証だろう。『流星ひとつ』の中で藤圭子は、声が変わってしまったことを引退の理由に挙げている。

 

沢木が書いた日記風のエッセイ集『246』を読んで引っかかったのは、沢木の娘が生まれたわずか5日後に、仕事でどうしても必要があったわけでもないのに、日本を離れ、ヘルシンキ、パリを経てニューヨークに行き、フロリダを周って10月に帰国したと書いていることだ。旅行中にアメリカで娘が生まれたばかりだという話をしたら、必ず「家に帰ったら誰もいなくなっているぞ」とか「娘の一番いいときを見ないのか」と言われたらしい。

 

このときの旅行は、ロバート・キャパの取材ではなかったかと思われるのだが、まだ確認できていない。(※下に追記)しかし、沢木が1983年の夏から秋の間にニューヨークに立ち寄り、どこに行き何をしたかには興味がある。

 

沢木の娘は、現在ラジオの仕事をしたり声優や児童書作家などとして活動しているが、所属事務所のプロフィール欄には7月20日生まれとなっているものの生まれた年の記載はない。1986年に書かれた『246』の中に「3年前に生まれた」と記述があるので、1983年生まれと思われる。1月19日生まれの宇多田ヒカルと同じ年だが、日本の学年で言うと宇多田は1月生まれなので1年先輩になる。この二人が同じ年に生まれたということにも因縁めいたものを感じる。

 

『246』でもう一つ引っかかったのは、彼がCMに絶対に出ない理由として、自分のことを許せないと憎んでいる人に自分の姿を見せるのはその人に対して無神経すぎるという旨のことを書いているのだが、その筆致が珍しく感情的なものに思えたことだ。彼が例に挙げているのは、たとえば妻子のあるタレントが離婚し、再婚して新たに子供を設けた後で、その家族の姿をCMで流すことは許されないという。想像をたくましくすれば、沢木が今の妻や娘と一緒に家族でCMに出演しているのを藤圭子が見たらなんと思うだろうか、とも読めてしまう。

 

ちなみに沢木と藤圭子の関係については「噂の眞相」1999年11月号が記事にしており、新宿御苑に程近い雑居ビルの壁際で、カップルのように親しげなムードで内輪もめを起こしている様子を見たというマスコミ関係者のコメントや、藤が突然引退して渡米したのは、沢木とニューヨークで暮らす約束をしていたからだとする関係者からの証言を紹介している。

 

写真評論家・大竹昭子のエッセイ集『旅ではなぜかよく眠り』(新潮社/95年)では、「歌姫」と題された文章で、「歌手」と呼ばれる女性が、「著名な作家」が書いたノンフィクション作品の本をぎゅっと抱きしめ、「この作家のことは知らなかったけれど、本人に会ったらとてもステキな人で、たちまち好きになってしまった。もうすぐニューヨークに来るので会うことになっている」と打ち明けたとの記述がある。

 

大竹は、ニューヨークに来たばかりの藤をしばらく居候させていた。「噂の真相」の記事には、80年代初頭にニューヨークで藤と付き合いがあったという人物が、藤がいつも沢木の話をし、沢木が書いた幻の原稿をいつもうれしそうに持ち歩いては周囲にそれを見せていたこと、そしてニューヨークで沢木と同棲する計画があることを話していたと書かれている。

 

藤圭子の自殺後に発表されたこの幻の原稿(『流星ひとつ』)に関し、藤の元夫でヒカルの実父である宇多田照實は、ツイッターのフォロワーから「沢木耕太郎さんの『流星ひとつ』は読みましたか?」と質問され、「厚かましく本を送って来ました。許諾もしてないし、30年以上前に発行予定だった本。藤圭子は怒っていると思います」と返信している。「藤圭子さんが生前に出版する事を快く了承しています」と反論する別のフォロワーには、「僕はNYで原稿を受け取った藤圭子の怒りを目の当たりにしました」と書いている。

 

実際には、藤はニューヨークで原稿を受け取ったのではなく、ニューヨークに移り住む以前に沢木より原稿を受け取り「自分は出版してもいいと思うが、沢木さんの判断に任せる」と返事している。

 

しかし、照實が藤の「怒りを目の当たりに」したのが、沢木がニューヨークに来ないことを藤が知った後だったとすれば、腑に落ちるものがある。

 

ちなみに、藤は、沢木に送った手紙には

「私は8月15日に学校が終わったら、16日の(カルフォルニアの)Berkeleyでのボズ・スキャグスのショーを見て、それからニューヨークに行くつもりです。最初は一人で旅をしようと思っていたのですが、クラスメートのまなぶさんという人が友達と車でボストンまで行くというので、一緒に行こうと思っています。車で行く方が、飛行機で行くより、違ったアメリカも見られると思うし、8月30日頃までにニューヨークに着けばいいのですから……。」

 

と書いているが、出産後の雑誌(平凡社「Free」創刊号、萬田久子によるインタビュー)では、ニューヨークに住んでいる理由を聞かれて以下のように説明している。

「私がN.Yに住んでいるわけ?そうね、偶然なの。バークレーに住んでいた頃、友達と4人で大陸横断の旅に出たの。その途中、ソルトレイクシティーのモーテルで、こんなことしててもなんにもならない。よし次の場所へ行こうと思い立って―」それで空港へ行ったら、N.Y行きの飛行機が最初の便だった、と。

 

後者が後付けの理由であることは疑いないだろう。実際には、藤は8月30日まで(コロンビア大学の授業が始まるまで)にN.Yに着くつもりでバークレーから友人の車で大陸横断の旅に出たのだ。

 

『日刊サイゾー』2013年11月7日付記事は、「『流星ひとつ』については、出版業界からも「きれいごとで片付けすぎではないか」という指摘もある」と書かれている。沢木と藤の関係性がきちんと描かれていないからだ。例えば、沢木は「あとがき」の中で、オリジナルの原稿に付した「あとがき」は「残っていない」として、執筆ノートに記されていたという“あとがきの断片”だけを公開している。

 

「本当のあとがきには、“沢木から藤へのラブレター”が書かれていたはず。沢木さんはわざと残ってないとして隠したんじゃないでしょうか。それ以外にも、『流星ひとつ』は肝心な部分をことごとく避けて通ってる気がしてならない。そもそも2人の恋愛関係は、沢木さんが途中で逃げ出して終わった可能性が高い。別れの時にもいろいろあったはず。それをああいう“美しい物語”仕立てにしてお茶を濁すというのは、どうなんでしょう」(大手出版社のベテラン編集者)

 

照實氏が目にした「藤圭子の怒り」とは、NYで一緒に住むことを匂わせながら遂に来なかった沢木に対する怒りであったろう。沢木が『246』の中で「自分も人に憎まれるような酷いことをしてきた」と書いた時に念頭にあったのは、藤圭子に対する裏切りのことではなかったか。

 

他人の人生については徹底した取材を通して見事なノンフィクション作品を仕上げてきた沢木耕太郎だが、自らの人生については、優秀なノンフィクション・ライターに取材してもらう以外に明らかにする方法はないのだろうか。もっとも、藤圭子との顛末を「私ノンフィクション」のスタイルで書いたら、『一瞬の夏』以上の作品になるような気もするのだが―

 

追記

 

この旅の目的はローバート・キャパの取材ではないかと書いたが、少なくともその目的の一部が明らかになった。というのは、沢木が「カウント・ダウン ヘルシンキからの手紙」と題して、ヘルシンキでの第一回世界陸上選手権を取材した文章が『象が空を』というエッセイ集に収められているからだ。この文章は1983年10月に発表したものとなっている。この大会は1983年8月7日から8月14日まで開催され、沢木はこれの取材のためにヘルシンキに飛んだことが分かった。

 

この「ヘルシンキ便り」という文章は、雑誌Sports Graphic Number 84(1983.10/5号、文芸春秋社)に掲載されている。雑誌からの依頼を受けての取材旅行だとすれば、たまたま娘の出産直後の時期に重なってしまったのかもしれない。ちなみに、まあ当然のことではあるが、このエッセイはそうした事情には一切触れていない。

 

フィンランドに来た理由として沢木は、「スペインに行くついでに、今までまったく足を踏み入れたこともない北欧の、それもフィンランドに立ち寄るのも悪くないと考えた」と書いている。この書きぶりからは、旅の本来の目的はスペインで、フィンランドの世界大会には依頼というより自らの意思で見に来たようにも思われる。ところが、沢木はこの後パリを経てニューヨーク、フロリダを周って帰国しており、スペインには行っていない。途中で予定を変更したということかもしれない。スペインで取材しようと考えていたが、相手が急に都合がつかなくなったとか、理由は色々と考えられる。

 

しかし、この時期にニューヨークに行ったというのがどうしても気になるのだ。沢木は藤が宇多田照實氏と再婚し、1月に長女を出産したことを知らなかったとは考えられない。