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長太郎

1938年、数えで38歳の時に「永住の覚悟」で故郷の小田原に引き揚げ、海岸沿いにあった「物置小屋へ以後二十年間起伏する身の上」となった川崎は、敗戦後、海軍に徴用され赴任していた父島から帰還した後、1948年10月の『新潮』に掲載された「偽遺書」を書いてから、深刻なスランプに陥ってしまい、「何も書けなくなつてしまつた」。

そんな状態を見かね「秋声先生の四男、徳田雅彦君が、何か書けと云つて呉れたのに勇気づき」、『別冊文藝春秋』1950年3月号に「抹香町」を発表したところ、これが「割りと好評をもつて迎えられ、再起の端緒」となり、この年は都合12篇の小説を書き、「前例のない多作振り」となったのである。

翌1951年には11篇、1952年には9篇、そして1953年には16篇もの小説を発表することができた。さらに1954年に出版された『抹香町』(講談社、1月)と『伊豆の街道』(講談社、3月)は「私の本としては予想外な売れ方」をして、川崎は「数へ年五十四になつて始めて」「印税らしい印税を貰つた」。

また川崎がくりかえし描いた物置小屋での生活にメディアは注目し、雑誌のグラビアやNHKのラジオ番組に出演したり、『週刊サンケイ』1954年6月13日号は「川崎長太郎ブーム」を特集し、物置小屋の前でたそがれる川崎の写真などを掲載するまでになった。

そんな騒ぎに文壇は激しく反発し、平野謙荒正人中村光夫らは「かつての私小説のビタネスをジャーナリズムによつて骨ぬきにされたのが今日の川崎長太郎のすがただ」との批判を加えた。

その一方で、川崎自身の筆によれば、

「私の書くものがひよんなことで、ブームみたいな工合となり、ひと目につき出すにつれ、小田原の膝もと始めとし、東京から名古屋から、又宇都宮あたりから、人妻、女給、未亡人、妾等々、女人が物置小屋へ推参するやうな次第となり、中で一緒になつてもいいと思つた女工、向うから捨て身で結婚を求めた三十女や、又は肉体関係に陥るのをあらかじめ用心してゐた人妻などと、それそれねんごろにし、身辺が大分賑になる間も、時々は「抹香町」のぞきに行くことを忘れないやうであつた」。

川崎が物置小屋を訪ねて来る熱心な女性読者との交わりを作品として次々と発表していくと、文壇の反発はますますエスカレートしていき、「群像」1956年1月号に掲載された「固太りの女」や「新潮」1956年2月号に掲載された「火遊び」といった作品は批判の集中砲火を浴びることになった。石川達三はこれを「不潔な非芸術」と弾劾し、臼井吉見は「駄作といわんよりは愚作であり、愚作といわんよりは劣等作」と罵倒し、平野謙も「私小説の非文学的ヴァリエーション」でしかないと全面的に否定した。

これらの批判には男性読者によるヒステリックといえるほどの嫉妬心がその根底にあるように思われる。というのも、メディアに登場し、雑誌の「グラビア・アイドル」にまでなった川崎の姿は、女性読者の目には、まさに「会いに行けるアイドル」と映ったに違いなく、実際にそのような展開を企てもし、まんまとそれに成功している川崎の姿は、男性読者の目には「文学者の敵」と映ったに違いないからである。

1953年9月の「別冊小説新潮」に掲載された「老嬢」の主人公は、「二十七になる今日まで」「恋愛らしい恋愛をしたことがありません」という、小田原の小学校の教師である。林芙美子ファンだった彼女は、芙美子亡き後に、「似通つたところがあるやう」に感じた竹七の小説に特に魅了されるようになり、川崎の私小説を読んで、この主人公にどうしても会いたくなり、物置小屋に川崎を訪ねる。

「別冊小説新潮」1954年4月掲載の「魚見崎」に出てくる「女学校時代から、文学愛好家」だったという渡部鯉子も、物置小屋を訪ね、「行きずりな娼婦にでもするやうな扱ひ方」をされるが、「伊豆の街道」に出て来る花枝という人妻に激しい嫉妬心を燃やす。

「あの、先生の小説によく出てくる、花枝と云ふ人――」

と、鯉子は、つとめてさり気なささうに切り出し、

「今でも、逢つてゐるんでせう。」

と、眉から額へかけて、あざのやうな翳をつけ、はれぼつたい瞼の中に、黒目を蛇の如く光らせながら、噛むやうに鯉子は相手の横顔に喰入つてゐた。

麦秋」(「新潮」1954年8月)では、瀧口澤子という五十代女性からのファンレターが引用され、、そこには「お作を通して心を寄せた」ことのみならず、「雑誌に出たグラフ」を見たことや、「先日NHKの朝の訪問時間でのお声」を聞いたところ弱々しくて心配したということが記され、「貴方様のお心を温めて差し上げたい」という熱烈な気持ちが書きつけられている。返事代わりに「抹香町」の単行本を送られた彼女は、「鯉子女子にも贈つたものと第六感です」と鯉子への嫉妬の思いを吐露しながら「兎に角一度おめにかかりたいのです」との手紙をよこす。

澤子の願いは成就し、川崎と落ち合い、「八年振り」に「覚束ない交り」を堪能する。すると翌日、「息つく間与へず、澤女は彼の書いたものに、二三度出て来た女のことを云ひ出し」始める。「鯉子さんはどうなりました」「『女色転々』と云ふ、この前お書きになつたものに、濱子さんと云ふひとが出てきますね。――まだ、貴方さまは、その方に、肩をもんで貰つたりしてゐないやうですが」。この数えで58歳になる女性読者は、小説家を専有したくてたまらなくなってしまったのだ。彼女は、先行する作品で見知った女性読者に、小説家を奪われたくない気持ちでいっぱいになっているのである。

白洲次郎の妻・白洲正子もまた、「私は、川崎長太郎のファンである」と言って憚らなかった。ある日小田原の近くまでやって来た正子は、「小田原、小田原、さういへば川崎長太郎といふ人は此処に住んでゐるのだらう。抹香町、――この魅力ある名前がとたんにむらむらと私を占領してしまつた」と書き記している。後に単行本『抹香町』の出版記念会に招かれた際には「大喜びで」出席し、「生れてはじめてのテーブル・スピーチ」まで行なった。そのスピーチを川崎がとても気に入ってくれたと正子は、嬉しそうに書き記している。

この白洲正子のテーブル・スピーチに対し、「きついお叱り」を与えた小説家がいた。彼は「有閑マダムが、貧しい暮しの小説家が、精進してゐる所へ見物しに行くとは何事か。芸術を解さぬにも程がある」と正子を叱責したという。

男性読者にしてみれば、川崎は物置小屋で困窮した生活に耐え忍びながら「精進」している「芸術家」でなければならなかったのである。

参考資料:「川崎長太郎とその読者 ―1950 年代のブームをめぐって」山本幸正