突然だが、私小説作家の作品に描かれた作家の家族が、作家の死後にどうなったか知りたくなったことはないだろうか?
太宰治のように、妻が回想録を書き、子が作家となった人もいる。
檀一雄の妻のように、ノンフィクションライターの手を借りて自らの言い分を本にした人もいる。
島崎藤村の姪(こま子)のように、第三者が丹念に調べて取材した例もある。
島尾敏雄は、子や孫が本を書き、妻も作家で、さらに妻を丹念に取材した本もある。
だがそういう例はごく少数に属する。
葛西善蔵や嘉村磯多の妻や子はその後どうなったのか?
川崎長太郎の妻千代子さんはまだご健在なのか?
小島信夫の再婚相手の愛子さんは御存命なのか?
所詮、作品の価値や鑑賞とは無関係なゴシップ的話題に過ぎないが、小谷野敦「作家の女遍歴」や「日本の有名一族」みたいな、そういうのをまとめた本はないのだろうか。まあ家族の存命中はプライバシーの問題があるから難しいのだろうな。
ところで、尾形亀之助の孫(尾形優子の孫)はすぐ近所で税理士事務所を開いていることが分かった。これはご本人がHPに書いているからここに書いても問題ないだろう。
自分の眼の前で雨が降つてゐることも、雨の中に立ちはだかつて草箒をふり廻して、たしかに降つてゐることをたしかめてゐるうちにずぶぬれになつてしまふことも、降つてゐる雨には何のかゝはりもないことだ。
私はいくぶん悲しい氣持になつて、わざわざ庭へ出てぬれた自分を考へた。そして、雨の中でぬれてゐた自分の形がもう庭にはなく、自分と一緒に緣側からあがつて部屋の中まで來てゐるのに氣がつくと、私は妙にいそがしい氣持になつて着物をぬいでふんどし一本の裸になつた。
(何といふことだ)裸になると、うつかり私はも一度雨の中へ出てみるつもりになつてゐた。何がこれなればなのか、私は何か研究するつもりであつたらしい。だが、「裸なら着物はぬれない――」といふ結論は、誰かによつて試めされてゐることだらうと思ふと、私は恥かしくなつた。
私はあまり口數をきかずに二日も三日も降りつゞく雨を見て考へこんだ。そして、雨は水なのだといふこと、雨が降れば家が傘になつてゐるやうなものだといふことに考へついた。
しかし、あまりきまりきつたことなので、私はそれで十分な滿足はしなかつた。
「學識」尾形龜之助