War Is Over

 if you want it

川端康成「文芸時評」

川端康成文芸時評から面白いとこを抜粋する。だが、この時評の面白さを真に味わうためには、全文を読む必要があるので、抜粋では伝わらないものが多い。それでも記録しておくのは、(何時になるか分からぬが)のちに読み返すときの指標とするためである。太字は引用者による。

 

<昭和六年五月>

五月の雑誌で、十一谷義三郎、永井荷風室生犀星尾崎士郎藤沢清造なぞの諸氏の作品を読んでみると、いずれも一癖ある文体である。今日一般に通用する文体ではない。さりとて、明日の先駆となる文体でもない。

<昭和六年八月>

「壁小説」という「新しい文学形式」が、これらの作者たちの創作の喜びとなり得なかったと、私は信ずるのである。従って、これらの作品は文学的死物である。全く作品に生彩がなさ過ぎる。…生きた言葉が余りに少ないからだ。死んだ言葉だらけだからだ。

谷崎潤一郎「盲目物語」について)

思い切って言えば、そもそもこの大作そのものが無意味に近いのである。…芸術の至境に達したもののようにも聞こえるが、これは作者の好事なのである。…所詮は作者の好事に疲れる読者である。

映画女優の美しさが私を楽しませるのは、西洋物も日本物も彼女等の出世作だけである。映画女優に限らず、舞台女優だって、レビューの踊り子だって、小説家だって、これは同じである。

<昭和六年十月>

私は「盲目物語」に半ば失望したように、この(永井荷風)「つゆのあとさき」にも、やはり半ば失望した。…永井氏は自分の感情を露骨に表してはばからなかった。その結果「つゆのあとさき」の芸術的気品は失われ、やや浅薄な作品となってしまった。

<昭和七年一月>

島崎藤村「夜明け前」について)

どこを読んでも同じであるという感じを受けた読者は、相当に多いことであろうと思う。更に分かりやすいのは、どの人物も同じようであるということである。…彼らの上に「家」の藤村氏、「嵐」の藤村氏の面影が、余りに行き渡り過ぎてはいないか。

正宗(白鳥)氏の虚無的な人生観のゆえに、その作風を時代遅れの消極的なものと断定し去るのは、世間の通り相場であるが、正宗氏の人生観が西洋のニヒリズムとも東洋の虚無思想とも、以て非なるが如く、その作中の人物も世捨て人どころか、思いの外粘っこい生存欲に執着しているのである。人間の我欲我執を政宗氏のようにつかんでいる作家は、他に類を見ないのである。この点正宗氏は、日本の作家の弱さを、一人で補っていると言ってもいいくらいである。

<昭和七年五月>

いったい映画というものは、例えばスタンバアグとデイトリッヒとの名作にしろ、文学にくらべれば、笑止なほど甘ったれたものと、私は考えている。その甘ったれたもので、大衆ばかりでなく、芸術教養の高い人々までをも、たやすく感歎させ得るところに、新芸術としての映画の強みもあり、危険もありはしないか。

<昭和八年六月>

徳田秋声氏の「和解」の書き出しである。あきれるばかり不細工な文章である。少なくとも、私達若い者には、こんな投げやりな文章は書けぬ。子供の自由画でなくて、老人の自由画であろうか。子供の作文を、私は殊の外愛読する。一口に言えば、幼児の片言に似た不細工さのうちに、子供の生命を感じるのである。

ついでだから言うが、今日の子供は、よい少年少女小説の作者を、殆ど全く持たず、哀れである。大人の書く少年少女小説は、たいていいやらしい。それには目をつぶっても、少年少女の日常の現実生活に触れた作品の書けるのは、見渡したところ、先ず佐藤八郎氏一人しかいないのではあるまいか。

徳田秋声「和解」と正宗白鳥「故郷」について)

老大家に対して甚だ礼を失することになるかもしれないが、子供の文章に教えられるに似た気持ちで、私は徳田氏や正宗氏の作品を読むのである。…二篇とも、勝手にしろとでもいう外ない傑作である。

谷崎潤一郎春琴抄」について)

ただ嘆息するばかりの名作で、言葉がない。勿論、批評家が難癖をつけられぬ作品などは、この世にあるものではない。例えば、「春琴抄」の鶯と雲雀である。…書き方がどうも足りぬ。谷崎氏は「蓼食ふ虫」に…グレイハウンドの首を抱くと、女の首と同じような感触だとの一句がある。これは想像では書けぬ。人聞きでは書けぬ。このような一句が鶯と雲雀の場合には乏しいのである。

<昭和八年七月>

泉鏡花「開扉一妖帖」について)

ただいたずらに文飾がわずらわしい。…現実離れの美というものは、少し心にゆるみが出来ると、支えきれないものと見える。作者そのものがつまらなく思われてしまうのである。

<昭和八年九月>

志賀直哉「万暦赤絵」について)

心境小説というより随筆に近い。前には大阪の骨董屋の展覧会へ万暦赤絵を見に行き、後にはそれを買うつもりもあって満州へ旅し、二度ともその古陶器の代わりに犬を買って帰ったというだけの話である。…こんなことで作者の生活は微傷だに負ってないことは明らかである。…私も一昔前志賀氏を「小説の神様」として耽読した一人であるが、近頃読み返そうとすると、その神経の「我」がむかむかとして堪えられなかった。

<昭和九年八月>

私は女流の作品を読むことが割に好きである。文学的な感銘が薄い場合にも、むしろそういう場合にはかえってより多く、女のありがたさとでもいべきものが受け取れるからである。…女の作品はどこか直接的である。なまである。女は作品でもほんとうを言い渋り、飾り隠すという説が多いけれども、どんなに老練な人にしろ、どんなに未熟な人にしろ、必ず地肌を見せている。自分で気が付かずとも、裸である。…女流作品一般によって見ると、女の感情は細かくて潤いがあると思うのは、ただ男の夢にすぎない。もともと貧しいうえに、ひからびやすく、硬くなりやすい。男を全く味気なくさせるような作品も少なくない。女流作家は年齢というものを、よほど恐れねばならぬらしい。

<昭和九年九月>

徳田秋声「霧」について)

この作品が「ひどく弛緩している」かいないかは、私には今のところ分からない。…よしや弛緩しているとしても、弛緩しているままに魅力を感じて、弛緩していることに気が付かなかった自分を不思議に思うのである。言い直せば弛緩の魅力とでもいうべきものまで、この作者はもう備えているのであろうか。

<昭和十年十月>

太宰治について)

「ダス・ゲマイネ」を簡単明瞭に理解して見せることは、私に困難であるけれども、太宰氏がこのような作品を書く気持ちは誰にもわかるような気がする。今日の知識人の傷ついた心情に外ならぬであろう。…太宰氏の作品も、「社会機構の投線」の結果である。その投線の影は真直ぐではなく、歪んでいるかもしれないけれども、そこにつらさがあり、そのつらさが作者自らに分かり過ぎているがゆえに、「萎縮」しそうな憂えもあるというものである。

<昭和十年十一月>

…元来わが文壇の批評家は、なまぬるい写実を批評する言葉しか持ち合わさぬのである。低俗なリアリストが家風であって、例えば「ボオドレエルはリアリストであった。」という意味のリアリストは、家風に合わぬのである。自然主義象徴主義も、超現実主義も、いかにその歪みや角を取り、いかに世道人心の良俗に危害なきものとして、わが国に移植されたか。土台わが国の文壇には、近代文学の精神なんてありはせんのである。お陰でお互いに、世間様から憎まれもせず、恐れられもせず、太平無事に暮らせてありがたいことだ。…身も世も滅ぼさぬ、結構な通俗道徳家揃いで、ほんとうの文学者など一人でもいたら、お目にかかりたいものだ。民族の伝統でござんすからね。夏目漱石芥川龍之介島崎藤村氏のような作風が高級の文学と世間から敬われる。阿呆らしい国だ。