小谷野敦が藤堂志津子を論じた「藤堂志津子と日本のリアリズム」を読んで、なるほどと思った。日本の純文学(通俗小説は言うに及ばず)が抱きがちな恋愛幻想みたいなものがない、女の側から恋愛のリアリズムを衒いなく描いているという点を評価している。
他の女性作家にないものを藤堂が持っているのかどうかは読書体験の乏しい自分には分からないが、高く評価するというのは相対的に優れているということなのだろう。
だが自分は評論家ではないので、評価基準は「自分に刺さるかどうか」という点に尽きる。その点では、藤堂の小説はピンと来ない。女から見た恋愛のリアリズムに触れるなら、藤堂の小説を読むより優れた女性歌手の曲を聴くほうがいい(大貫妙子とか吉田美奈子とか。竹内まりやの一部の曲を加えてもいい。藤堂志津子は竹内まりやに近いかもしれない)。
「恋愛は孤独に対する風邪薬であり、セックスとは、性欲と孤独に対する風邪薬だ」と小谷野は言うが、世の中には、風邪を引いたままで薬を手に入れることの叶わない恋愛難民の方が圧倒的に多い。だからこそ恋愛幻想を振りまく作品に圧倒的なニーズがあるのだ。藤堂の小説の主人公のような、少し風邪気味になると手を差し伸べて薬を渡してくれる異性に事欠かない人物は、どんなにリアルに描かれていてもやはり慊い。
それはもう、小説の側の問題ではなく、読者の側の問題である。藤堂の小説には、確かに切羽詰まった性欲を抱えた中年の女が描かれているが、西村賢太の私小説に出てくる切羽詰まった性欲を抱えた北町貫多の場合とはちがい、それがどこまでリアルなのかは自分には想像の域でしかない。そしてそんな女の性欲を満たそうとしてくれる男が次々に寄ってくるのがリアリズムだと言われると仄かな反発を覚える。
佐藤泰志の評伝に載っていた、佐藤泰志が藤堂志津子(熊谷政江)に送ったラブレターには、鬼気迫る文面にものすごく切羽詰まった性欲が滲み出ていて、やるせないリアリズムを感じた。
しかし、村上春樹を以下のように批判している小谷野が、藤堂志津子に対しては極端に甘口であるというのは、理解に苦しむというか、あまりに分かりやすいというか(引用の村上批判については全面的に賛同する)。
私が春樹を容認できない理由は、たった一つ。美人ばかり、あるいは主人公好みの女ばかり出てきて、しかもそれが簡単に主人公と「寝て」てくれて、かつ二十代の間に「何人かの女の子と寝た」なぞというやつに、どうして感情移入できるか、という、これに尽きるのである。(「『ノルウェイの森』を徹底批判する」より)