War Is Over

 if you want it

野口冨士男とか

坪内祐三が編集した十返肇という人の文芸評論を読んでいるが1914年(大正3年)生まれのこの世代の人は左翼が挫折したのを目撃して抽象的理想論や観念を信じなくなり、戦争はその認識を確認したに過ぎなかったと書いているのを読み、こういうことをはっきり書いている人は初めてだったので興味深かった。

小島信夫は1915年(大正4年)生まれなのでほぼ同世代だ。大正生まれの世代のニヒリズム、いったん共産主義の洗礼を受けた上での挫折を体験したイデオロギーへのアレルギーをもつ世代の話は全共闘運動の敗北を目の当たりにした世代(自分はそのギリギリ最後に属するといえるか)にも通じるものがあるのではないかと思った。十返が批判している坂口安吾1906年明治39年)生まれ。

野口富士男の『風のない日々』という小説は、情愛を欠く夫婦の日常生活を徳田秋声譲りのリアリズムで淡々と描写し、日常の些細な感情の行き違いや仕事のミスなどによるマイナス感情が鬱積し、その果てに一つの事件が起こって終わる。戦前の家制度の呪縛により嫁がされた光子の不幸は、小津安二郎の映画に一脈通じるものを感じた。

野口の自伝的小説『かくてありけり』は、物心つくまで両親と同居したことがなく、その後も孤独な子供時代、青春時代を送った一人の作家が、その複雑な生い立ちと前半生を回想する。淡々とした筆致と、土地や周囲の詳細な描写が味わいを深めている。

1990年、著者79歳のときに出た小説『しあわせ』は、小島信夫『うるわしき日々』を彷彿とさせる老人文学で素晴らしい。妻の痴呆症を抱えた小島とは違い、妻だけでなく自身の闘病記(肺癌)にもなっている。小島信夫を評価しない小谷野敦がアマゾンのレビューで「『しあわせ』はいかにも身辺雑記私小説」で収録しなくてもよかったと書いていて笑った。

野口富士男『海軍日記』も読み始めた。〈精神注入棒〉の体験談など、戦争(「戦場」ではない)のリアルが描かれている。具体的な日付時刻や金額や住所やらのディテールにこだわる野口のスタイルは日記向きといえるかもしれない。死ぬまで日記を書き続け、息子の平井一麦氏がそれを全部ワープロに打ち込んだという。一麦氏(私小説家の佐伯一麦とは関係なのだろうか?)が父親の日記について書いた『父野口冨士男の遺した一万枚の日記に挑む』という本が文春新書から二〇〇八年に出たのだが速攻で絶版になったのかカタログからも外されていて本屋では買えないので図書館で予約した。

P+Dブックスから出ている『なぎの葉考』も買う。紀伊國屋の在庫検索をしたら在庫僅少とあったので慌てて買いに行った。川崎長太郎『淡雪』も一緒に買う。小島信夫の『別れる理由』1〜6も売っていた。昨年小島信夫の小説にハマっていた頃なら間違いなく買っていたと思うが、今はちょっと心が離れている。こういうのは読むタイミングというものがある。

半月ほど前にブックオフで買った三浦清宏『運命の謎 小島信夫と私』はまだ手を付けていない。川崎長太郎『女のいる自画像』も途中で止まっている。関心があるうちに読まないとどんどん別の物に移って行く。何かに追い立てられるようにして読んでいる。同じ作家の本でも、どれから読むかの順番もよく考える。とりあえず『感触的昭和文壇史』を読み通すのが先か。通勤時間が一番集中して読めるのだが、電車が混んでいて読めないときもある。