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菊地成孔年譜(暫定版)1963~1994

※本で読んだことやラジオで聞いたことの記憶に頼っての記録なので極めていい加減(出典に当たれるものはなるべく当たった)。当然ながらウィキペディアをはじめネット記事を大幅に参照したため厳密な事実関係との整合性は不明(そもそも紙媒体における本人の発言にも時系列が矛盾する場合がある)。要するにあくまで個人的目的で作成した備忘録のため資料的価値はほぼ無し。

 

1963年(昭和38年)

6月14日、千葉県銚子市観音町で生まれる。父・徳次郎は日本料理人で飲食店を経営。14歳違いの兄は後に作家となる菊地秀行。実母は成孔の育児を放棄し、叔母(9人姉妹の母の下の下の妹)に育てられる。この育ての母は、太平洋戦争の直前から直後にかけて統合失調症に罹患し、生来、片足に障害があった。

母親の臍の緒が首を絞め、呼吸困難の逆子として、窒息して生まれて来た(アンダーウォーターフェチの原点)。産婆が思いっきりケツを叩き、2分後に爆発的に泣き出した。

1964年(昭和39年)1

10月、親に連れられ東京オリンピックを見に行き、ソビエト連邦の女子水球チームの選手に抱っこされて記念撮影する。

1967年(昭和42年)4

実家は映画館に挟まれていた。母方は寿司屋、父方は料亭。実家はそれをカジュアライズした食堂兼割烹の様な、結局夜は飲み屋。

泣くと母親が映画館に連れ込み、そうすると何故か泣き止むので、幼児期から映画館に顔パスで入っていた。

三代続いた大衆料亭を継いだ、商才は無いが、無茶苦茶イケメンだった親父が、店を潰しそうに成る恐怖から、おかしくなり、ワタシは幼稚園児の頃から、昼の出前、夜中の店番をさせられた(ネグレクトの症状)。

そこで、タランティーノどころではないエゲツない喧嘩を毎晩見た。

1968年(昭和43年)5

店のメニュー書きや領収書書きのために置いてあったぺんてるを初めて手にする。

クレヨンは線がぼやけちゃうから、まずダメで。僕は左利きなもんだから、鉛筆は無駄に手が汚れるし。ボールペンは線が細すぎるうえ、角度次第でインクが出なくなったり。色鉛筆は色の淡さが煮え切らない。油性マジックはキュキュッって音が癇に障る。三色ボールペンなんてカシャカシャと大げさな音をだす割に、本当に選んだ色が出てくるのか信用ならないし、金具とか他の素材を使った見た目も嫌いなんだよね(笑)。

ぺんてるは、僕にとってパーフェクト。ハッキリとした輪郭の線が書けるし、すぐ乾いてくれるのも左利きにはありがたい。インクが出る量もちょうどいい。匂いもなければ、裏写りもしにくい。潔いルックスも好きだし、安いのも嬉しい。特にどんな状況、場所でもとにかく『書ける』ところが良いよね。気分がノッてきて横向きや上向きになっても、インクが出ないなんてことはなく、安定して書くことができる。僕はメロディを書く五線譜も、ネタ帳も、スケジュール帳も、手書きするものは全部ぺんてる。自分でお金を出してペンを買うようになって以来、ぺんてる以外買った記憶がないくらいです。

1970年(昭和45年)7

小学校の入学祝に銀座に服を買いに行った帰りに「竹葉亭」と「不二家」の味を知る。

小学生時代は神経症を患うような子供で、左利きを強引に右に変えられた反動で激しいチックと吃音になる。

店員も雇わず、ずっと小学生が1人だけで、1日中店番をさせられた。自分達はぴったりくっついて上階の調理場にいるのである(実母は不安症で、父親の浮気を60年以上心配し続け、認知症に成る事で、やっと解放される)。育ての母との擬似親子関係は僅か10年弱だったが(風呂や食事や散歩などを、ずっと二人っきりでさせられる)、彼女は後に、やはり障害がある方と結婚、ワタシは実母との暮らしに戻されるが、その頃は中学生で、童貞ですら無かった。

青山学院大学に進学し上京した兄・秀行の部屋に残された大量のレコードや書物を吸収して育つ。同時代に流行っていたドリフよりも一世代前のクレイジーキャッツに、仮面ライダーよりもウルトラQに、天地真理よりも園まりに惹かれる。

山下洋輔「風雲ジャズ帖」や筒井康隆の作品にも触れる。

僕はそこでサブカルチュアに関するほとんどの知識を身に着けた。それは、70年に幼稚園に入園した僕に、50~60年代の文化を刷り込んだわけだ。

1971年(昭和46年)8

夏、銚子市田中町の「スナック千恵」で流れていた“園まり”の曲でテナーの音色に開眼する。

店の裏にあったストリップ小屋に出前を届け、愛くるしい風貌から小屋のダンサーたちに可愛がられていたある日、年増の踊り子にチョコレートを餌に神社の境内に誘われ、下半身を悪戯されそうになる。思わず嘔吐したため難を逃れる。

このころ、吃音が治り、無口ではなくなる。

1972年(昭和47年)9

裏のストリップ小屋が閉館し、父親が店を移転する。

1975年(昭和50年)12

タミヤニュース」(タミヤ模型の広報誌)1975年7月号に投稿が掲載される。

わたしの家はそば屋、わたしはプラスチックモデル一つ作るにしろ客のいる前でコソコソやらなければならないのです。ある日、ぼくは店のすみでジオラマを作っていたのです。すると子どもずれの客が入ってきて・・・

1976年(昭和51年)13

中学入学。入学時に買ってもらったステレオセットに耽溺し、クラシック音楽に触れる。中学の吹奏楽部にトランペットとして入部。

タミヤニュース」(タミヤ模型の広報誌)1976年3月号に投稿が掲載される。

プラスチックモデルとはつねに暗い影をせおっている物だと思う。その内容を理解されないまま外見だけできらわれものになっている。「手作り」をテーマにされるとテレビでもラジオでもプラスチックモデルが対象にされそれもきまって悪役である・・・

1977年(昭和52年)14

吹奏楽部でファゴットに転向。3年では部長になるが、コンクールの成績がよくなかったため、ほとんど行かなくなり、銚子市の市民オーケストラに出入りし始める。

1979年(昭和54年)16

4月 銚子市立銚子高等学校普通科入学。

授業中は殆ど寝ていたか(当時から夜行性で、寝るのが5時とか6時とかだったので)、さぼって煙草を吸っていたか、ジャズ喫茶に通っていた。思い出せば思い出すほど、自分は実質上の中卒だと思う。

1982年(昭和57年)19

3月 銚子市立銚子高等学校卒業。上京。西武新宿線の中井にある予備校の学生寮に一年住む。

当時は「コピーライターブーム」で、「コレならオレも出来そう」と思ったワタシは、大学の文学部を卒業し、広告屋に入るべく、上京する。

上京して早稲田予備校に通うも、1年間で、授業に出たのは3回。ディスコ通いやライブハウス通い、デートやセックスに忙しく、何度か予備校からコーションを受け、実母が半ば(予備校に)謝りに来た事もあった。

当然、大学受験は総て落ちた。唯一合格したのは、東京都内でもない近郊都市にある、誰も知らない、滑り止め用の3流大学だけ。

それでも、銚子に帰るのだけは(二浪はさせてくれなかった=金がないので=もうこの頃は店が潰れていた)絶対に嫌なので、その大学に入学手続きをし、オリエンテーションに行った。

その日、生まれて初めてのパニック発作に見舞われる。日本中から集まった、ハイに成った地方の人々のパワーに当てられたか、よほどその大学が嫌だったか。過換気を起こして上半身をはだけながら校門を出、公衆電話で「この大学には入れない」と実家に伝える。

1983年(昭和58年)20

佐藤允彦が中心になって開校した音楽専門学校「メーザーハウス」に第一期生として入学。学科はサックス。既に作家として成功し羽振りの良かった兄の菊地秀行に借金してセルマーのテナーを買い、その足で初授業に出る。

在学中に教えを受けた講師は、サックス伊東たけし、沢井原兒、アンサンブル橋本一子音楽理論井上博、副科ピアノ越智健二など。橋本一子のバンドに参加する。

入試も無い、ポピュラーミュージックの専門学校。当時は「スタジオミュージシャンブーム」でもあり、ああそうか、「ここを出て手に職を付ける」と言えば逃れられるだろう。

そして、高校のときの親友かつジャズ仲間のSという男が上智大学に入学し、ジャズ研に入ったと知り、以後、専門学校でジャズを習い、上智のジャズ研に忍び込み、という二重生活が始まる。「メーザーハウス」は3年でドクター過程を終了、しかし上智のジャズ研にはその後も3~4年通い続ける。

上智大のジャズ研で人生の笑いの師匠と崇める菊地潔(ピアニスト)と知り合う。大学に近い四谷のジャズ喫茶「いーぐる」その他のジャズ喫茶に通う。

「まだ楽器も吹けずに入学し、一年で恐るべき上達をし、「一年で一番伸びたで賞」をもらった若き菊地成孔は、当時から虚言癖ともいうべきトークの天才で、彼のしゃべることの9割は嘘、ということで「キューちゃん」と呼ばれていたわけで、わたしは今でも「キューちゃん」と呼んでますが。。いや、楽屋トークもさることながら、ステージも楽しかったです。」(橋本一子談)

1984年(昭和59年)21

横須賀の米軍基地でのフィフス・ディメンションのツアーのサックスに欠員が出て学校に求人募集があり急遽出演が決まる。バックバンドの4番サキソフォニストとして、初めて人前で演奏し、ギャラを支払われる。

朝の六時から夜中の二時まで一日拘束されて1万5千円。それでも結構嬉しかった

1986年(昭和61年)23

メーザーハウス卒業。学校の仲間を中心に「TIPOGRAPHICA」を結成。

5.14 新宿ピットイン「藤本敦夫のBEAT JAM」
藤本敦夫(G,Syn,Vo)小田島亨,菊地成孔(Ts)神戸誠(G)川端民生(B)小野江一郎(Ds)細畠洋一(Per)

8.2 新宿ピットイン「橋本一子エキセントリックアンダーグランド」
橋本一子(Key,Vo)藤本敦夫(G)菊地成孔(Ts)南広明(B)藤井将登(Per)大谷直弥(Ds)

アラジン「名古屋ワンナイトラヴ」でプロ初レコーディング。

ウガンダ・トラのバックバンドへ参加。コミックバンドコントで「オレたちひょうきん族」の特番に出演。横浜のウガンダの店で夜通し練習し、明け方に菊地がバンドメンバーに手料理を振る舞い、その後皆で市営プールに通うという天国的な日々を過ごす。

常盤響(写真家、DJ、当時20歳)とCSV渋谷で初めて会う。常盤は加藤賢崇岸野雄一らによるバンド、「東京タワーズ」のファンクラブの創立者で、菊地はその会誌「京浜通信」に文章を寄せ、東京タワーズ周辺の音楽家集団「京浜兄弟社」と交流があった。

1987年(昭和62年)24

6.25 「TAITO GAME MUSIC Vol.2 "DARIUS"」Alfa Records

9.8 六本木ピットインでTipographica公演
今堀恒雄(G,Cho)藤本敦夫(B,Cho)菊地成孔(Sax,Cho)小野江一郎(Ds)水上聡(Key)ゲスト:松前公高 From EXPO(Key)

12.1 六本木ピットイン Tipographica
今堀恒雄(G,Cho)藤本敦夫(B,Cho)菊地成孔(Sax,Cho)小野江一郎(Ds)水上聡(Key)

1988年(昭和63年)25

10.25 橋本一子「high excentrique」

11.19 Tipographica「Rhythm Mountains~Tanker」をレコーディング

1989年(平成元年)26

4.26 新宿ピットイン夜の部「早川岳晴、藤本敦夫SESSION」に出演。
早川岳晴(B)藤本敦夫(Key)石渡明広(G)吉田哲治(Tp)菊地成孔(Ts)河原秀夫(B)林克洋(Ds)細畠洋一(Per)

7.25 新宿ピットイン夜の部「早川岳晴SALT+2」に出演。
早川岳晴(B)石渡明広(G)藤井信雄(Ds)菊地成孔(Ts)横川理彦(Vn)

7月 隅田川花火大会の「花火とセッション」(フジテレビ)で山下洋輔と初共演。

WAVE発行の雑誌「銀星倶楽部」11号テクノ・ポップ特集(1989年7月3日発行)に書いた文章で初めて原稿料をもらう。

署名して稿料を貰った最初は「銀星倶楽部」という雑誌のテクノポップ特集。といったもので、88〜9年だった様な気がします。エキスポというグループについて書きました。もう手元にないし、内容も全く覚えていないんですけど、お金が貰えると言うよりも、好きなバンド(僕もゲストで参加していたんですけど)について雑誌で紹介できる喜びで、大喜びで気合いを入れて書いたのを覚えています。ライター業をやろうなんて露とも思って居ませんでした。兄を見ていて、実入りの悪い仕事だなあ。それに、〆切とか大変そうだ。と思っていたので。

10.1  原みどり「アマロ・ジャバロと言えた日」TRIAD

日本コロンビアから出てる(もう廃盤)「ココロノート」という原みどりちゃんのアルバムの「ステイ」っていう曲ですね。これが僕がスタジオミュージシャンとして録音した、記念すべき最初のプレイです。後に彼女とはスパンクハッピーを始めるのですが、事務所の名前が「ステイミュージック」なので「因縁だ因縁だ」といってました。

10.21,22 新宿ピットイン朝の部「菊地潔カルテット2DAYS」に出演。
菊地潔(P)菊地成孔(Ts)椎名達人(B)林克洋(Ds)他

関内のジャズクラブ「エアジン」で山下洋輔による武田和命の追悼公演に出演。

11.25 橋本一子「D.M.」Polydor

 v.a.「DRIVE TO HEAVEN, WELCOME TO CHAOS」

Tipographica「Rhythm Mountains~Tanker」収録)

MESCALINE DRIVE「SPOONY SELFISH ANIMALS」

12.30、31 新宿ピットイン朝の部「菊地潔カルテット2DAYS」に出演。
菊地潔(P)菊地成孔(Ts)椎名達人(B)林克洋(Ds)

1990年(平成2年)27

3.26,27 新宿ピットイン昼の部「今堀恒雄2DAYS」出演。
今堀恒雄(G)菊地成孔(Ts)水上聡(Key)佐野篤(B)外山明(Ds)

5.3,4 新宿ピットイン朝の部「菊地潔カルテット2DAYS」
菊地潔(P)菊地成孔(Ts)椎名達人(B)林克洋(Ds)

5.21  NEWEST MODEL「Crossbreed Park」

5.26,27 新宿ピットイン夜の部「山下洋輔3DAYS」
26日(土)山下洋輔(P)小松康(B)堀越彰(Ds)菊地成孔(Ts)
27日(日)山下洋輔(P)津村和彦(G)向井滋春(Tb)小松康(B)堀越彰(Ds)菊地成孔(Ts)

7.14,15 菊地潔カルテット2DAYS
菊地潔(P)菊地成孔(Ts)村田陽一(Tb)椎名達人(B)村石まさゆき(Ds)

7.23 夜の部「中村卓也CROMAGNON JAZZ ORCHESTRA」
中村卓也(Comp,Key,Tp)沢田秀浩,佐々木史郎,五十嵐一生,高瀬龍一郎(Tp)佐野聡,青木泰成,山岡潤(Tb,Euph)大房正美(Btb)池田篤,山田穣,臼庭潤,松田靖弘,菊地成孔(Sax)加藤崇之(G)村上聖(B)山本祐介(Per)大坂昌彦(Ds)

8.11,12 菊地潔カルテット2DAYS
菊地潔(P)菊地成孔(Ts)沢田ひろし(B)林克洋(Ds)

9.12 今堀恒雄2DAYS
12日(水)今堀恒雄(G)佐野篤(B)外山明(Ds)ゲスト:菊地成孔(Ts)横川理彦(Vn)

9.15,16 菊地潔カルテット2DAYS
15日(土)菊地潔(P)菊地成孔(Ts)村石雅行(Ds)椎名達人(B)村田陽一(Tb)
16日(日)菊地潔(P)菊地成孔(Ts)椎名達人(B)

10.20,21 菊地潔2DAYS
菊地潔(P)菊地成孔(Sax)林克洋(Ds)藤本敦夫(B)吉田哲治(Tp)

11.4 夜の部「今堀恒雄SESSION」
今堀恒雄(G)菊地成孔(Ts)横川理彦(B)外山明(Ds)

11.23,24 朝の部「菊地潔2DAYS」
菊地潔(P)菊地成孔(Sax)椎名達人(B)村石マサユキ(Ds)岡部洋一(Per)佐々木しろう(Tp)

12.8,9 菊地潔2DAYS
菊地潔(P)菊地成孔(Ts)椎名達人(B)外山明(Ds)岡部洋一(Per)五十嵐一生(Tp)

12.27,28 山下洋輔NEW TRIO 2NIGHT
27日(木)山下洋輔(P)小松康(B)堀越彰(Ds)フィーチャーリング菊地成孔(Ts)
28日(金)山下洋輔(P)小松康(B)堀越彰(Ds)フィーチャーリング菊地成孔(Ts)津村和彦(G)

1991年(平成3年)28

2.9 新宿ピットイン「佐藤春樹JAPULISH」
佐藤春樹(Tb)菊地成孔(Ts)谷川賢作(P)菰淵樹一郎(B)貴田薫(Ds)

2.25 新宿ピットイン「NOW'S THE TIME WORKSHOP」
■菊地潔GROUP[菊地潔(P)菊地成孔(Sax)椎名達人(B)村石雅行(Ds)岡部洋一(Per)佐々木しろう(Tp)]

※以後月3~4回のペースで新宿ピットインに出演。共演者は:

今堀恒雄TRIO、佐藤春樹JAPULISH、菊地潔GROUP、坪口昌恭HAHA BAND、山下洋輔NEW TRIO、辛島文雄梅津和時、松本治、佐藤春樹、板橋文夫など。

3.21  DOOM「HUMAN NOISE」invitation

3.21  MESCALINE DRIVE「IDEOLOGY COOKING」

4月 女子と大喧嘩の最中にTVに移ったエリツィンを見て爆笑し仲直りする。

5.31  ハイポジ「写真にチュ~」TOSHIBA EMI

6月  v.a.「京浜兄弟社オムニバス 誓い空しく」京浜兄弟社 (Tipographica「Drive」収録)

7.26  ハイポジ「COM'ON SUMMER」TOSHIBA EMI

10.27 新宿ピットイン夜の部「今堀恒雄ティポグラフィカ
今堀恒雄(G)佐野篤(B)外山明(Ds)松本治(Tb)菊地成孔(Ts)水上聡(Key)ゲスト:大儀見元(Per)

12.1 六本木ピットイン夜の部「今堀恒雄TipoGraphica
今堀恒雄(G)外山明(Ds)佐野篤(B)水上聡(Key)松本治(Tb)菊地成孔(Sax)

1992年(平成4年)29

今堀恒雄TIPOGRAPHICAとして新宿、六本木ピットインで月1,2回出演。

ハラミドリ、河野伸と共に「SPANK HAPPY」結成。

2.21  NEWEST MODEL「UNIVERSAL INVADOR」

8.1 新宿ピットイン「大友良英2DAYS」
1st set 大友良英新ユニット"セルロイド・マシンガン"
大友良英(Turn-Tables,key)菊地成孔(Sax)鬼怒無月(G)高良久美子(Vib)沢田穣治(B)植村昌弘(Ds)ササキヒデアキ(映像)

8.15 赤煉瓦サマー・ジャズ・イン・舞鶴山下洋輔ニュートリオ+菊地成孔

新宿ピットインの移転と同時に「菊地トリオ」を始め、アコースティック・ジャズとテキスト・リーディングを合わせたものを行う。

10.23 新宿ピットイン朝の部「菊地成孔TRIO」 
菊地成孔(Ts)渡井端穂(P)大坪寛彦(B)

以後月1回くらいのペースで演奏。

10.29 大友良英"セルロイド・マシンガン"WITH 燐光群
大友良英(Turn-Tables,key)菊地成孔(Sax)鬼怒無月(G)高良久美子(Vib)沢田穣治(B)植村昌弘(Ds)ササキヒデアキ(映像)ゲスト:劇団・燐光群

11.15 橋本一子Hyper Inspiration
橋本一子(Key,Vo,G)藤本敦夫(B,G)藤井信雄(Ds)加藤みちあき(G)菊地成孔(Sax)

12.2 菊地成孔TRIO
菊地成孔(Sax)渡井端穂(P)大坪寛彦(B)ゲスト:岡部洋一(Per)原みどり(Vo)

1993年(平成5年)30

1.11 新宿ピットイン昼の部「南博PROJECT」
南博(P)菊地成孔(Ts)水谷浩章(B)芳垣安洋(Ds)

1.25  zabadak「桜」MOON RECORDS

2.25  山下洋輔 New Trio「Playground」Verve

山下さんとは、89年から94年ぐらいまで頻繁に御一緒させて頂いていて、デュオでツアーとかしていました。その頃「おじいさんの古時計」という曲をフリージャズでやる。というアイデアを僕が出し、レパートリーになっていたのですが、それがレコーディングされています。アルバート・アイラー的。

3.1 新宿ピットイン「山下洋輔NEW TRIO PLUS 日本全国縦断八十八箇所サバイバル・ツアーNo.1」
山下洋輔(P)小松康(B)堀越彰(Ds)ゲスト:林栄一(As)菊地成孔(Sax)

3.5  NEWEST MODEL「COUNTER-CENSORSHIP」

3.5  MESCALINE DRIVE「RESPECTABLE SINGLES 1989~1993」

3.26 新宿ピットイン「菊地成孔フィーメール・トラブル」
菊地成孔(Ts)渡井端穂(P)大坪寛彦(B)原みどり,もりばやしみほ,葛生千夏,織田佳子(Vo)

6月 山下洋輔と欧州ツアー。初の海外演奏旅行。

8.21  tipographicatipographica」God Mountain

収録時メンバー:今堀恒雄(g)、外山明(ds,per)、佐野篤(b)、水上聡(key)、菊地成孔(sax)、松本治(tb)。

8.25  v.a.「Young, Gifted and Five」Mercury

9.9  Chara「Violet Blue」Epic/Sony Records

チャラさんを見いだした新人発掘部の担当者が僕の大学の同期だったので、チャラさんはプレ・デビューのデモからしばらくの間御一緒させて頂いておりました。「とにかくフリーキーにノイジーに吹いてくれ」との事で、ブキョーとかいっています。チャラさん初期の名盤ですね。

1994年(平成6年)31

楽器の個人レッスンを始める。

2.2  市井由理「Rainbow Skip」Epic/Sony Records

3.2  めいなCo.「我が人生最悪の時」FOR LIFE

8.3  SPANK HAPPY「走り泣く乙女」TM FACTORY

9.7  SPANK HAPPY「MY NAME IS」TM FACTORY

収録時メンバー:ハラミドリ(vo,cho)、菊地成孔(sax,cho)、河野伸(key,cho,syn)。ゲスト:今堀恒雄(g)、外山明(dr.per)、ASA-CHANG(per)、メッケン(b)、村田陽一(tb)、荒木敏男(ftb)、佐藤清(tuba)。

11.21   岩城由美「愛情の天才」NIPPON COLUMBIA

12.7  SPANK HAPPY「僕は楽器」TM FACTORY

v.a.「Neu Konservatiw」God Mountain (Tipographica「Infinity Street Car」収録)

12.11 新宿ピットイン「大友良英MEMORY DISORDER Vol.1 トライグラム・プレゼンツ」セルロイド・マシンガン
大友良英(G,Turn-Tables)菊地成孔(Sax)鬼怒無月(G)高良久美子(Vib)沢田穣治(B)植村昌弘(Ds)ササキヒデアキ(VDOS)下総源太郎,ブルース・マルコム(Voice)松原幸子(SE)

渋谷にCSVってスペースがあって、そこで岸野雄一さんの京浜兄弟社プレゼンツ「デモテープ・バトル・ロイヤル」ってのがあった。そこにオレがティポグラフィカのデモテープを持って行ったことがすべての人脈のきっかけになってる。そこに倉地久美夫君もいたんだよね。

大友良英に会ったのは93,4年だったかなあ。いま渋谷クアトロがある所の近くにバブリーな多目的ホールがあって、そこでアートイベントをやるという話になったときに、経緯は知らないけど大友に白羽の矢が立った。その時に呼ばれたのが最初かな。

彼と初めて会ったのは80年代後半のオレが(高柳昌行の)私塾を飛び出して、ライブをやり出した頃のことだ。実は最初の出会いは互いに挨拶すらしてない。オレは新宿ピットインの朝の部にティポグラフィカを見に行き、菊地は西荻窪アケタの店の昼にやったオレのターンテーブルのソロか何かを見に来ていたらしい。互いに客とミュージシャン、別に挨拶するでもなかった。客席とステージ上の人数も似たような感じ。オレのライブの客席は2~3人で、ティポは2~30人だったろうか。多分、当時からなんとなく双方気になっていたのかもしれない。(大友良英

正式に共演したのは、さらにその 2~3年後で、オレが渋谷のビームという、今はけばけばしいゲーセンになってしまったホールの?落としのコンサートをやったときだった。バブル末期で、なぜかオープニングイベントに結構いいギャラがでて、オレはこのホールで10日間にわたって好き勝手なライブをやれたのだ。おまけに入場は無料。最初は100人程度だった観客が、10日後には400人以上にも膨れ上がり、会場に入りきれないくらいだった。で、この最終日、はじめてやった10人編成のGROUND-ZEROのオーケストラ版に来てもらったのが多分彼との最初の共演。オレはターンテーブルとギターでギュインギュインやりながら指揮もして、で、菊地はこのとき、のちのちプレイズスタンダードなんかで演奏することになる香港映画「男達の挽歌」のテーマやら、GROUND-ZEROの1枚目とか2枚目に入っている曲をテナーサックスで豪放に吹いてくれていた。たしか1991年だか92年じゃなかったかな?(大友良英