INSTANT KARMA

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サン・ラー(Sun Ra)年譜(暫定版)

 ソニーP.D.ウスペンスキー「A New Model Of the Universe(新しい宇宙像)」にとりわけ感銘を受け、特に進化論のような重要な事柄における科学的推論の限界と、客観性と主観性と呼ばれているものの限界を超え、そうしなければ回答不能と思われる問いに答えを出すことの必要性についてのウスペンスキーの関心を真剣に受け止めた。

「サン・ラー伝」ジョン・F・スウェッド(河出書房新社、2004)より

1914年 0歳

5月22日、全米で最も人種隔離政策が酷かったアラバマ州バーミンガムで生まれる。ハーマン・プール・ブラント(Herman Poole Blount)と名付けられる。

周囲からはスヌーカムと呼ばれ、そのうちソニーと呼ばれるようになる。

1917年 3歳

3歳の時、創造主が私を家族から引き離した。彼は言った、「私が君の家族だ」と。それ以来、私は彼の指導下にある。…私は地球に属していると感じたことはなかった。すべてが現実ではなく夢だと感じた。…私は人間ではない。誰のことも母と呼んだことはない。誰のことも父と呼んだことはない。呼ぶ気になったこともない。…私は一般的に生活と呼ばれるあらゆるものとは関係を断っている。全てを音楽に傾けてきた。

1920年 6歳

トーマス小学校に入学。礼儀正しく、勉強好きで、他の子供たちが休み時間に校庭で遊んでいる間、読書をしていた。全くスポーツには関心がなかった。

1924年 10歳

米国友愛クラブ少年部に入団。黒人のために白人により作られた慈善団体で、退役軍人に率いられ、木工、キャンプ、正確な行進、ディベートの訓練を受ける。ソニーはハイスクールまでそのメンバーだった。

彼らは私に教えてくれた。規律について…秘密結社のすべてを…そしてリーダーになる方法を。

1925年 11歳

幼い頃兄が買ってきたフレッチャー・ヘンダーソンのレコードに夢中になる。

ピアノを贈られ、すぐに譜面を読み弾けるようになる。1年以内に作曲を手掛け、詩も書くようになる。

友人は私のことを信じず、楽譜をもってくると、私は彼が持ってきたモーツアルトその他すべてを演奏して見せた。その日から、彼は毎日楽譜をもってきては、私に読めないところがないか見つけようとしたので、私は初見ですべてを弾いた。彼には私が読めないところを見つけることができなかった。

1928年 14歳

思春期を迎えた頃、睾丸発達障害、停留睾丸に悩まされるようになる。重度のヘルニアを併発し、いつも内臓が下りてくるような不快感の原因となった。

祖母が死去し、大叔母の庇護下に置かれ、溺愛を受ける。

私は14歳になる頃まで、人々が抱える悩み、偏見その他について何一つ知らなかった。私はまるで地球に属さない別の世界にいて、純粋さを心に刻み込まれた。私にはプログラムを組み込まれた心はない。私は人々が言っていることが分かるが、彼らは私が何を話しているのか理解できない。

大叔母に連れられ、デューク・エリントンフレッチャー・ヘンダーソンらの演奏を聴く。楽器を演奏する他の子供たちと演奏を始める。

詩人や作家はみな人間として苦労すると本で読んだので、私はその道に進む気はなかった…ミュージシャンは若くしてこの世を去るものと聞いていたので、私は絶対にミュージシャンになりたくなかった。

1929年 15歳

バーミンガムで唯一の黒人中等教育機関で米国最大の工業高校に入学。全ての科目で”優”を獲得し、理解力の速さはクラスで抜きんでていたが、クラスメイトからは大人しい目立たない生徒と見られていた。

1931年 17歳

3.13 学校新聞の一面にレポーターとして登場、生徒集会でマックス・ワーデル大佐が講演した内容を見事に要約して記事を書く。

読書に没頭する。当時のバーミンガムで黒人が読書するのは容易ではなく、公立図書館では黒人職員が本をこっそり扉から差し出してくれるのを当てにするしかなかった。

スクール・オーケストラのメンバーになり毎日放課後練習する。

1932年 18歳

音楽巡業に出て、カロライナ州、ヴァージニア州ウィスコンシン州イリノイ州を廻る。日記をつけ始め、人種隔離や彼が受けた侮辱に対する考えを書き留めるようになる。

優秀な成績でハイスクールを卒業。バンドを結成し一晩に3,4ドル稼いで生活の糧とする。

1933年 19歳

バレエ団のために演奏する白人オーケストラに代理ピアニストとして加わった際、警官が抗議し乱闘騒ぎになる。

カウント・ベイシーの楽団にいた地元のトランぺッター、ビル・マーティンからレコードを採譜してアレンジすることを勧められ、フレッチャー・ヘンダーソンの Yeah Man! の全アレンジをレコードから採譜する。バーミンガムで初めてこれに挑戦したミュージシャンと言われる。

作曲した譜面をニューヨークの音楽出版に送るも音沙汰なし。何年か後に無断で録音されていたことが分かる。

1934年 20歳

エセル・ハーパーという女性教師のバンドに加わる。

音楽教師ワトリーのバンドに加わり、事実上のグループ・リーダーを務める。ソニー・ブラントと名乗り、リーダーになるのが嫌でサイドマンのようにピアノに専念する。

1935年 21歳

バンド生活から逃れるためにフロリダA&Mという音楽学校に入学し、教員養成コースを専攻。バンドのメンバーが大学に押しかけ、結局全員が大学の公認バンドとして活動することになる。

初めて正式なピアノの授業を受ける。バッハ、ハイドンモーツアルトベートーヴェンメンデルスゾーンシューマンショパン、サミュエル・コールリッジ・テイラーの楽曲に取り組む。教授から理論科目の助手になってほしいと頼まれる。

ナサニエル・デットやウィル・マリオン・クックといった現代アフリカ人作曲家について知る。

図書館で過ごす時間が長くなり、聖書研究、偉大な説教者の伝記の詳細な研究に没頭する。試みにセヴンスデイ・アドヴェンティスト教会の礼拝にも参加する。

ルームメイトが彼の日記を回し読みして笑っているのを見て、日記を破棄する。その日記の中では、宇宙人が彼に連絡してきて、ある惑星に着陸した出来事が描写されていた。このUFOとの接触体験を、彼は後日インタビューで何度も詳細に繰り返し語っている。

1936年 22歳

学年を修了し、バーミンガムに帰郷。教員養成大学に行くつもりだったが、アラバマ州立大学のバンドに加わる。バンドでオーディションを受け、巡業に出たのをきっかけに、再び大学には戻らなかった。

その後の数年間、ソニーバーミンガムで最も熱心なミュージシャンと認められるようになる。大叔母の家をリハーサル・ホールに変え、バンド・メンバーをリクルートして、ミュージシャンに個人指導を与えた。彼の家はミュージシャン志願者の溜まり場と化す。

1937年 23歳

ティール・テープ・レコーダーを購入し、バンドのリハーサルや本番の演奏を録音したり、ヘンダーソンやエリントンの公演を録音する。彼の採譜の速さには他のミュージシャンも舌を巻き、たった一回聴いただけで全アレンジメントを再構成できるとまで言われていた。

バンドを維持するためにポップ・ソングを演奏する一方で、複雑で奇妙に変化するリズム・パターンなど実験的なアレンジを試すようになる。

デューク・エリントンが町にやってきたとき、ソニーは自分が書いたアレンジメントを楽屋にもって行って見せ、二人は一時間以上話し込んだ。話の途中で、デュークは彼が書いたアレンジメントを出してきた。それでソニーはエリントンも、一見分からないようなやり方で不協和音を使っているのを知り、自分の考えが正しいことを確認して興奮した。

家では、家族から、酒もタバコもやらず、ガールフレンドもいないことをからかわれると、愛想よく受け流しながらピアノを弾いていた。

ソニー菜食主義者になり、ビタミン剤を飲んでいた。他の人々は当時そんなものを聞いたこともなかった。彼は眠りはエネルギーを奪い、創造性を無駄にするといって眠らなかった。彼は夜中でも構わずメンバーに電話し、演奏したがるのでミュージシャン泣かせで有名になった。

聖書に対する関心はますます情熱を帯び、関連ノートを作成し、相互検索できるよう複数の改訂版を整理して携えていた。音楽研究も深まり、部屋にはクラシック音楽の楽譜とレコードが散乱し、作曲家の伝記が山積みになっていた。

1941年 27歳

第二次世界大戦の入隊通知が届く。プロテスタント平和主義団体と接触し、徴兵委員会に良心的兵役拒否者として認定するよう求め、投獄ではなく奉仕キャンプへの配属を要請する。ソニーは身体的欠陥について次のように訴えた。

現在、私の全左半身は頭から足の先まで焼けるように痛みます。こうした発作は予兆なしに私を襲います…頭から足まで痺れているのがどんな感じか分かりますか? ひどい痛みで横になれず、歩くこともできず、結局一晩中眠らず夜明けを待っていたことがありますか? 私にはそれが分かります。

当時知人に送った手紙の中では、秘められた弱点と不安が綴られていた。

私はセックスを私の生活の一部と考えることができませんでした。努力はしたのですが単に関心を持てないのです。世界で私にとって唯一価値があるのは音楽のみであり、どんな困難があろうとそれがあれば報われると考えています。真実のところ、母も父も友人も持たない私にとって、私が持っている全ては音楽だけなのです。残念ながら、私は人々を信じることができなくなりました。普通の人々のことが少し怖いのです。彼らが人生に求める最大のものは彼ら自身と他者を傷つけ破壊することのように思われます……音楽を奪われるくらいなら、私は壁に立たされて銃殺されることの方を望みます。

12月、ソニーは当局に連行され、拘束される。

独房の中で自殺を考えるが、思い留まる。

1942年 28歳

2.6 32日間の収監ののち釈放され、ワシントンDCで森林保護作業のキャンプ生活に送られる。

心身の不調を訴える嘆願書を提出し、検査の結果「抑鬱神経症で性的倒錯をもつ教育を受けた黒人知識人」と診断される。

3.22 除隊し家に送り返される。

この体験は深く彼の心に刻みつけられた。

つづく