INSTANT KARMA

We All Shine On

Ryuichi Sakamoto 1952.1.17-2023.3.28

僕と”教授”こと坂本龍一氏との出会いは、中学生になった頃、書店から毎週家に取り寄せていた「週刊FM」だった。

この雑誌は父がFMラジオから好きな番組をエア・チェックするために取り寄せていたもので、そのうち自分も利用するようになり、好きなFM番組をカセット・テープに録音して、番組表を切り取ってカセットケースに貼り付けたりしていたのを懐かしく思い出す。

その雑誌で毎年、ラジオDJ(ディスク・ジョッキー)の人気投票というのがあった。「好きなDJ」の1位が渋谷陽一で、これで渋谷陽一の存在を知った。同時に、「嫌いなDJ」の1位が坂本龍一だった。二人ともNHK-FMのサウンドストリートという番組をやっていた。坂本が不人気な理由は「喋り声がボソボソしていて聴きとりづらい」「暗い」といったものがほとんどだったが、本当に嫌われているというよりは今思えば愛のあるイジリ方だった気がする(ちなみにこの人気投票で「嫌いな洋楽ミュージシャン」の圧倒的1位だったのがプリンスで、それでプリンスも知ることになる)。

実際に坂本の番組を聴いてみたら、確かにボソボソ喋っていて聞き取り辛かった。だから自分にとっての坂本龍一のイメージは、まず「ボソボソと聞き取り辛い声で喋るラジオの人」であった。

高校生のときに、坂本龍一村上龍との共著(「EV-Cafe」とかいう対談本)を買ったのを覚えている。吉本隆明とか蓮実重彦とか柄谷行人とか浅田彰とか当時の現代思想のスターたちと知的な議論をしているのを読んで、中身はほとんど理解できなかったが、自分の中では「坂本龍一=箆棒に知的なミュージシャン。というより知識人で音楽もやる人」というイメージが上書きされた。東京芸大の音楽科を出ていて「教授」と呼ばれていたのもそのイメージの強化に役立った。

YMO戦場のメリークリスマスもリアルタイムでは経験していないが、忌野清志郎との「いけないルージュマジック」はテレビで見てショックを受けた記憶がある。カッコ良くて奇抜で面白い。この三つのバランスが絶妙だった。

肝心の音楽については、正直ピンと来なかった。「音楽図鑑」とか未来派野郎」をリアルタイムで聴いたが、ほとんど印象に残っていない。その後のアカデミー賞騒ぎ以降も坂本の音楽を愛聴することはなかった。

それでも、坂本のラジオは面白く聴いていた。自分にとって坂本龍一はずっと「ラジオの人」であり続けた。マーヴィン・ゲイの「What's Going On」を初めて聞いたのは彼のラジオだったし、コルトレーンも彼のラジオで知った。

彼の音楽に一番痺れた体験は、ダウンタウンごっつええ感じ「アホアホマン」のコントをやった直後に坂本が戦場のメリークリスマスをピアノ演奏した場面だというのだから、自分は決して坂本の良いリスナーではなかった。

坂本龍一は、ポップミュージシャンとして誰もの記憶に残る名曲を次々に書くようなタイプの音楽家ではなかった。もともとがクラシカルな出自だから、映画音楽のスコアや楽曲のアレンジの分野で才能が発揮された。彼が最も「キャッチーな」曲を作ったのはやはりYMOの時代で、「Behind The Mask」や「東風」など百年経っても聴き継がれるだろう曲を生み出した(どうでもいい話だが、YMO結成前に坂本の手相を見たある占い師が「見たことがないほど勢いのある昇り竜の手相で、間違いなく天下人になる」と断言したという話をどこかで聞いたことがある)。

自分は坂本自身よりも、坂本の関係したミュージシャンたち、矢野顕子大貫妙子山下達郎忌野清志郎細野晴臣といった人たちの作る音楽を好んでいた。

坂本龍一が音楽家として本物の天才であり、二十世紀の日本を代表する音楽家だということを自分に納得させてくれたのは、アカデミー賞とか海外での評価ではなく、ずっと後年になってからの菊地成孔の解説によってだったと思う。

坂本と菊地の生前唯一の(?)邂逅となったときの対話の記録はこちら

自分の中でだけではなく、社会的評価としても、坂本龍一は単なるミュージシャンではなく、ひとつの文化的アイコンであり「行動する知識人」であった。その世界的知名度のゆえに、彼の発言は巨大な影響力をもった。

彼は学生の頃から筋金入りの反体制派であり、武満徹のコンサートに行って武満の右傾化を糾弾するビラを配っていたというのは有名な話である。そこで武満本人に声を掛けられ、話し合って「いい人だった」とのちに感想を述べている。

大江健三郎とも反核・反原発キャンペーンで共働した。この二人が今年相次いで亡くなったということにも象徴的なものを感じざるを得ない。

これも有名な事実だが、坂本龍一の父親は河出書房の名物編集者・坂本一亀(かずき)である。「文藝」の編集長を務め、三島由紀夫高橋和巳はじめ多くの作家を世に送り出したことで知られる。

田邊園子「伝説の編集者 坂本一亀とその時代」(作品社、2003年)という一亀の評伝は、息子である坂本龍一が直接、「父が生きているうちに父のことを書いて本にしてほしい」と依頼して書かれたものだという。

この本の「まえがき」にはこう記されている。

坂本一亀は、二〇〇二年九月二十八日、八十歳と九か月でその生涯を終えた。何年も透析に通っていた自宅近くの病院で、安らかに息を引きとったという。彼は二十五歳から三十五年間、出版社で文芸編集者として果敢に生きた。
編集者としての坂本一亀は、ファナティックであり、ロマンティストであり、そしてきわめてシャイな人であった。彼は私心のない純朴な人柄であり、野放図であったが、繊細であり、几帳面であり、潔癖であった。
彼の言動は合理性にはほど遠く、矛盾があり、無駄が多いように見えたが、本質を見抜く直感の鋭く働く人であった。言葉を費やして説明することを省き、以心伝心、推して知るべし、あ、うんの呼吸、といった古武士の世界に住んでいるように見えた。坂本さんは古武士のような人ですねえ、と感嘆していたのは、昔、たびたび河出書房新社に見えていた日沼倫太郎だったような気がする。坂本一亀には日本古来の白木の木刀がよく似合いそうだ。彼は〝木刀の味〟の日本男子であった。

(中略)

坂本一亀を駆り立てていた、あの狂おしいまでの情熱とは何なのか。それは、戦争体験と無縁ではないように思われる。青少年期に死と向き合って日常を過ごさざるを得なかった世代の人々のなかに、時々、共通するものを感じることがあった。三島由紀夫の狂気、井上光晴の激情、などである。
坂本一亀は、三島由紀夫の回想のなかで、

きみは兵隊に行ったのかと私に訊く。行ったと答える。そうか、よかったな、うらやましいよ。ちっともよくない、と私は返す。

(中略)

戦時中は皇国少年であったことを、坂本一亀から打ち明けられた人がいる。それは、さもありなんと納得がいくものだ。しかし彼は軍隊体験によって軍隊を激しく憎悪し、その感情は、野間宏の書き下ろし長篇小説『真空地帯』を世に送りだすことによって幾分かが解消されたのかもしれない。ベストセラーにもなり、高い評価を得た『真空地帯』の成功のあと、目を真っ赤に泣きはらしていた坂本一亀を見た、と当時の同僚は証言する。

龍一は父・一亀についてこう語っている。

父とはまともに話をしたことがないのが悔やまれる。創作に携わるものの大先輩として、聞いておきたいことは山ほどあったのだが。。。父は自分の思いを他人に伝えるのがへたな人だった。愛するのも、愛されるのもへたな人だった。最後までそういう人だった

一亀の晩年の言葉が残されている。

戦後は私にとって余命だった。戦争でもう死んだという感じがあって、多くの同世代の仲間が死んで、その人達のためにも頑張らなければいけないと思って、同世代の仲間達を育てるということをやりたいと思ってきた

龍一の激しい反戦思想、軍隊に代表される<体制>というものを強く憎む思いは、一亀から受け継がれたものであったに違いない。忌野清志郎のそれが亡き母親の思いを強く受け継いだものであったように

戦争の記憶が世代を経て風化し、遂にその最後の残像が消え去ってしまったとき、また次の戦争が始まるのかもしれない。

 

芸術は長く、人生は短し。

偉大な芸術は世代や戦争や混乱の歴史を超えて生き残る。

貴方の遺していった幾多の作品もまた――

 

合掌

 

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