まだ中学生だった自分は、「将棋世界」で当時<天才少女現る>と騒がれていた女流棋士・林葉直子の写真を見て、「こんな美人が将棋の天才だなんて、どういうことなのだろう?」とショックを受けた。
その最初の衝撃以来、あの<失踪事件>から<中原誠との不倫事件>で将棋界から完全に引退してしまうまで、彼女は常に<いつも騒ぎを巻き起こす僕の先生(はフィーバー)>という印象を残した。
しかし自分は彼女に対してまったく悪い感情を持っていない。
それどころか、「将棋界の中で、あれほどに感性豊かで、心の美しい人はいなかったんじゃないか?」とさえ思っている。
その印象を決定づけたのが、林葉直子が大山康晴名人に寄せたいくつかの文章である。
元記事の別のブログからの孫引きになるが、彼女が書いたこんな文章がある。
どこのオジさんかと思った。
今年の四月、青森県百石町で行われた女流王将戦第一局の行われる前日のことだ。
そのときの挑戦者山田久美二段と私は揃って対局場の下見に行った。
大山記念館の脇にあるという、対局室に・・・。
階段を上がり30mほど歩いたぐらいだったか、対局室を目前にして私たちは立ち止まった。
腰を低く屈めて、赤い絨毯を一生懸命しいてくれている人がいたからだ。
対局者が気持ち良く将棋を指せるようにとの、見栄えを考えての心憎い演出であろう。
「どうもスミマセン」
私達二人は、そのオジさんの後ろ姿に向かって声を掛けた。
地元関係者の人かと思っていたからである。
しかし、その直後に私と久美ちゃんは顔を見合わせた。
よく見ると、見覚えのある後ろ姿だったからである。
あれは、もしや―
あのちょっと明るい頭は・・・。
私と久美ちゃんは絶叫した。
「大山先生っ!!」
とんでもない話である。
将棋界の首領、あの大山十五世名人が我々のために足場を作って下さっていたのだ……。
オロオロと立ちつくす久美ちゃんと私に、赤い絨毯をしき終え立ち上がった大山十五世名人は、ニコリと微笑みながら、
「ね、このほうがいいでしょ」
と、さらりとおっしゃったのであった―。
その日の出来事に、私と久美ちゃんは興奮し、翌日が対局だというのに”大山話”に花を咲かせた。
「やさしいよネ、大山先生って・・・」
「天才、偉い人物!って思っていて近寄り難い感じがあるのだけど、実は、そうじゃない」(略)
山田久美の大山自慢話を聞かされ私は思わず、
「大山先生って、可愛いいっ!」
と口にしてしまった。
正味一時間ほどになったか、対局前日にそのときの立会人である大山十五世名人の話を対戦相手と延々としてしまったのであった。
普通のオジさんではない大山先生の話は尽きることはないであろう。
将棋の対局をなさっているときの勇々しき姿、超人大山康晴十五世名人、女流プロになりたての頃は、大山先生の魅力に気付かなかった私だが、今は、大山将棋の懐の深さと大山康晴に惚れてしまったのである。
将棋界に憧れていた私が今、女流プロとして10年目に突入。
少しずつ色んな部分で、心に余裕ができたのか、少しだけ大人になれたのだろう。今が一番充実しているような気がする。
そして棋士が大好きである。
将棋界に存在できて、私は幸せだとつくづく思う今日この頃だ。
将棋ファンならば、泣いて喜ぶような先生方とお食事できたり、話をしたりすることができるのである。
やはり仕事で大山先生とご一緒させていただいたときに私も将棋ファンの人と同じようにドキドキした。
関係者の方々への気配りの素晴らしさ。大山十五世名人一流のジョーク混じりの気さくな言動。
私は大山先生の傍らにいながら感激しっぱなしだったのだ。
東奔西走して将棋会館を建て、将棋ファンの幅を広げて下さったお方で将棋界の伝説の人だ。
67歳というご高齢にしてなおA級。超一流の勝負師なのである。
私は、テレビで偶然見たのだが、思わずブラウン管に映る大山先生に向かって拍手を送った。
後日、新聞の天声人語等のコラム大山先生のコメントが載っていた。
「勝負師の世界といった印象の強い将棋が、文化として認められたのが何よりもうれしい」と。
味わい深い人生、数多くの苦労、そしてどれだけ将棋を愛しているかというのが、この言葉に含まれているのではないか。
この記事を読み終えたとき、私は目に涙を浮かべていた。
大山十五世名人なしでは、今の将棋界は全く別のものになっていただろう。
おめでとうございます。
有難うございます。
大山先生に向かって何度も言わなければならない言葉かもしれない。
ちょっとオーバーかもしれないが、大山十五世名人のためなら、
”たとえ火の中、水の中”
というのが今の心境である。
以前、大山先生の知人に私が、
「大山先生の大ファンなんですが、ファンの人と同じ感覚で、緊張しておしゃべりできないんです」
チラリと洩らしたところ、その知人の方が大山先生に伝えておいてくれたのだろう、後日仕事で同席したときに、さりげなく、
「林葉さん、何かあったら、話しなさいよ」
と言ってくれたのだ。
単に”大山先生とおしゃべりしたい”というミーハー的な気持ちの私の発言を、大山先生は真剣に受けとめて下さっていたのである。
大山ファンの私にとっては夢のような話である。
私は、これからもっともっと大山自慢話を増やしたいと思う。
それは私の最高の宝になるハズだ。
だから大山先生には無理をしない程度にがんばってほしい。
素晴らしい将棋、生き方、これからもまだまだ、私たちに見せつけてくれるはずである。
「ご苦労さまでした」
と言う日は、まだまだ遠いと信じている―。
私の愛する大山康晴十五世名人よ。
別の場所では、こんなことを言っていた。
「4年くらい前から、私のほうから一方的に”大山先生って可愛い”とか、ギャーギャーいいはじめたんですね。男の人に”可愛い”っていうのは失礼かもしれないんですけれども、”可愛い”のなかには、”愛”という字もはいっているし、お許しいただけるんじゃないかと思ったんです」
「大山先生は、時間があれば、色紙をお書きになったり、つねにファンのことを思われている。あの荷物のなかにも、ファンへのおみやげがはいっているにちがいないと思ったんですね。それなのに、ひとりで荷物をもって、スタスタ歩いておられる。どこか近寄りがたい雰囲気があるんでしょうね。そのとき、よけいなお世話なんですけど、大山先生はさびしいんじゃないか、孤独なんじゃないかと思ったんです。ふつうのおじいちゃんが大きな荷物をもって歩いていたら、もってあげますよね。やっぱり、大山先生でも荷物をもってあげるべきだと思って、さーあっとそばにいって”荷物をもたせてください”といっちゃったんです。荷物をおもちして、ドアを通るときに、先生がお開けになって、”どうぞ”っておっしゃるんです。その一言で、すごくうれしくなっちゃいましてね。それまでは一線を引かれていたのに、それがなくなったみたいに感じられたんですね」
フフフ。
大山先生ってば、ほんとうに可愛いんだわ。
なにがって?
そりゃ、ぜんまい仕掛けのお人形さんのようにチョコチョコ動きまわるお姿もそのひとつですが。
金沢で行われたJT杯で、ご一緒させていただいて、やっぱりステキだと思わされてしまった。
ハイ。
なんせ、この私と趣味が合うんですもの。
「大山先生は辛い物がお好きなんですよね」
大山情報を仕入れていた私はすかさず先生に質問。
ニコリと微笑みながら、ジュースを飲む手を止め、
「そうねえ、嫌いなものは何もないけど辛いものは好きなほうだね」
「カレーはお好きですか?」
「好きですよ。そうそう、前にね、30倍カレーっていうの?食べたことあるんだけど」
「え・・・!! 辛くありませんでした?」
「そうねぇ、ちょっと辛かったけど・・・」
「私、50倍カレーって超激辛を食べて周りの人からヘンだって言われるんですけど、大山先生も30倍のカレーをお食べになるんですか」
「水を飲まないでネ、イッキに食べるのがコツなんだよね、あれは」
「そうです、そうです」
「しかし、30倍カレーを食べに行ったとき、私だけは大丈夫だったんだけど他の人はダメだったね」
「それはそうでしょう、将棋界の人でそんな辛いものを食べるのは私ぐらいだと思ってたんですが、大山先生もですか」
私が50倍カレーを食べるとのウワサは将棋界の中ですぐに広まり、私の味覚はヘンだということで通っていたが、ほらみろ! こーんな強い仲間がいたのである。
「林葉さん、相当辛いの好きなんだねぇ」
「はいっ、大好きです」
「初めて訊いたよ、30倍カレーより辛いのを食べた人がいるって」
「私もです。大山先生と私、味覚が似てるかもしれませんね」
「そうかもしれないねぇ」
ニコリと笑いジュースを飲みほした大山先生。
やっぱりイイ。
この私、ヘンタイ呼ばわりされること数多いのだが、”一緒だ”とうなずいてくださる方はこの世に大山先生しかいないかもしれないんですモノ。
そして、大山が亡くなったとき、林葉はこんな文章を寄せた。
8月7日、夢を見た。
どこかのパーティー会場に、私は紛れ込んだようだった。
知らない人、ばかりだった。
なんで、私はこのパーティーに出席したのか、夢の中で必死に考えた。
きっと、誰か知ってる人がいるはずだ。
私は、その会場を見渡した。
すると、白いスーツ姿に白いネクタイ姿の―見慣れた顔があった。
その人を見つけたとき、私は息が詰まりそうになった。
大山先生・・・・・・。
本物か、どうか、遠くから目を皿のようにして見ていると、その人物は、私に気付きツカツカと歩み寄ってきた。
間違いない、大山先生だ。
死んでなかったんだ。
私が涙声で、
「先生、生きてたんですね!」
というと、少しがっかりしたような困った顔で、
「林葉さん、あんたが心配だから、もう一度、握手してあげようと思ったの。早く元気出して、しっかりしなさいよ」
と、大山先生は、両手で包むようにして私の手を握りしめてくれた・・・。
時間にしてどれぐらいだったのだろうか。
私は、ここでハッとして目が覚めた。
ベットの上で天井に手を向け、握手をする格好をしていた私・・・。
夢だったのだ。
でも―。
私は、もう一度、自分の手を見直し、なぜだか、その手にぬくもりを感じられずにはいれなかった。
大山先生が他界された、現実を認めたくない私の儚い夢。
仕方のない事、そんな言葉で済ませられなかった。
私にできることがあれば、何とかしてあげたかった。
もしも生命を売買できるのなら、私の寿命を縮めてでも先生に長生きしてほしいと思った。
たくさん、たくさん、将棋界のためにがんばってこられた大山先生。
雲の上の手に届かぬ存在のお方だと知りつつ、キャアキャアいって、大山先生のお側に行き、握手して下さい、というとニコニコしながら握手してくれた。
大山先生の袖飛車が好きなんです!というと、すぐ対局で使って、私を喜ばせてくれた。
書き出すと、キリがない・・・。
そして、涙も止まらない。
大好きだった大山先生。
7月に再入院された、ということを耳にし、すぐにお見舞いに行った。一度目は、4、5人の女流棋士と。そして二度目は、その三日後に岡山で買ったお花とお水をお見舞いに私、ひとりで行った。
柏のがんセンターに移動される直前で病室では先生ひとりベッドの上に足を投げ出した格好でワイシャツのボタンを止めていた。
「こんにちは」
と、私が入って行くとニコリと微笑み、
「あ、どうも、今から病院を変わることになったんだけど・・・」
少し声が嗄れ、痩せていた。
私がお見舞いの品の説明をすると、
「ちっともよくならなくてネ。1週間なんにも食べてないの。お水ばっかり飲んでてね。どうもありがとう」
大山先生はそれだけいうと、またワイシャツのボタンに手をかけた。
私は、ちっともよくならない・・・という大山先生の声を聞き、目に涙が浮かんだ。大山先生の前だから、泣いちゃダメだと言い聞かせた私の唇はふるえた。
「先生、頑張って下さい」
精一杯、私が言える言葉だった。
すると大山先生は私のほうを向き、
「そうねぇ」
と静かにうなずいた後、黙って何も言わずに、手を差し出して下さったのだった。
最後の最後まで、私に握手をして喜ばせてくれよう、としてくれたのだ。
「大山先生に握手していただくと、次の対局は勝てるんですよ!」
そう言ってた私の事を想って下さったのである。
忘れられない、一生忘れられない最後の握手となってしまった。
大山先生ほど偉大で、素晴らしいお方にめぐり会え、一瞬でも、同じ空気を吸え一緒に仕事できたことを嬉しく思う。
私は未だにお亡くなりになられたなんて信じられない。でも―。
いつもせわしなく、将棋ファンのために動き回っていた大山先生は、今は、天国という別の世界に行ってお仕事しているのだと、思えてならない。
今頃きっと、天国の高い所で、数人並べて指導対局してらっしゃることだろう。
私もがんばります。大山先生。
これらの文章を読んでも分かるように、林葉は、感性豊かで人の心を打つ文章を書く才能を持っている。
エッセイストとしての著作も多いが、ライトノベル作家としても成功した。
九州で警察官を勤めていた厳格な父親に育てられた林葉は、強い男性に憧れる傾向があった。上の文章を読んでも分かるように、ファザコン的なところがある。
そんな林葉が、敬愛する大山十五世名人の存在を失った後に求めたのが、大山を継ぐ棋界の覇者、中原誠十六世名人の愛であった。
林葉からアプローチされた中原は、最初は相手にしなかったが、林葉の純粋で情熱的な態度に絆され、その魅力にゾッコンになってゆく。
この二人の関係は、週刊誌やテレビでスキャンダラスに報道され、当事者のみならず将棋界に大きなダメージを与えた。
林葉は中原との馴れ初めから破綻に至るまでの生々しい過程を小説として発表しているが、中原からも林葉の言い分への反論を週刊誌に発表している。
その中で、林葉から中原に宛てたいくつかの手紙が公開されている。
これは林葉が<失踪>してイギリスへ行ったときに中原に宛てた手紙。
愛するあなたへ
お元気ですか? 風邪なんかひいてませんか?(略)
山ほど辛いことがあったんだけど、それが一瞬でも忘れることができたのはあなたに会えたおかげです。幸せや愛を沢山有難う。心の支えになってたんです。あなたに会える日を楽しみにしてる自分がすごく幸せで、会えるともっと幸せでした(略)
私のポケットの中にあなたがくれたお守りがあります。
ずっと.....いつでも側にいてくれる気分にさせてくれます。(略)
居所がちゃんとしたら、また手紙書きます。With Love
ホントにすっごい迷惑かけてごめんなさい。
私ってバカですよね.....。(略)
逢えなくても心の中であなたを愛し続けるつもりだった。そしてネ、何十年後かにあなたが死んだら、私も同じ日に死んで天国で
「あなただけをずっと愛していたんですよ」って.....言うつもりだったの.....。
発想が小説的かもしれないけど.....うん、でも-----私は-----見かけよりもけっこう一途なタイプなんですよネ、これが。(略)
誰よりも誰よりも
あなたのことを愛してます。
また.....手紙書きますネ
アイルランドで書かれたこの手紙を読んで、中原は林葉に「もっと深く魅かれていくようになった」と告白している。
この後に林葉から別れ話を切り出され、狼狽した中原は、林葉を引き留めようとする。そして縒りが戻ったり、また喧嘩して別れたり、でまたくっついたり、要するに腐れ縁的な関係をズルズルと続けていた。
そのうち林葉から中原にまとまった金額の要求があり、それを支払ってお互いの関係を終わらせた…と思っていたところに「文春砲」と「留守録テープ」が来たものだから、それはいくらなんでもフェアじゃないだろう、というのが中原の反論の要旨である。
この反論手記を読んだ林葉は、別の週刊誌にこんなコメントを寄せた。
今回の彼の手記で、「大山十五世名人のように復活したい」という趣旨のことを書いていらっしゃるけれど、大山先生は癌で何度も手術して、最後のA級順位戦で谷川先生に勝たわけです。でも彼の場合は、大山先生のように、肉体が傷ついて、命さえ危うい状況で指しているわけではない。それなのに、自分を大山先生に同一視している、というところが甘えてますよ。
こうしてみると、林葉直子にとっての、大山名人に対する愛と、中原名人に対する愛のちがいがよく見えてくる。陳腐な言い方で嫌なのだが、前者はアガペー、後者はエロスと呼ぶのがやはりしっくりくる。
ちなみに、大山名人と林葉の歳の差は45歳、中原との差は21歳である。
林葉直子は、今もブログで現在の将棋界のことについて積極的にコメントしている。
7年前のソフト疑惑の時に「三浦君が不正をしたとは思えない」と真っ先に書いたのも彼女だ。最近も藤井聡太の活躍についてや、かつて奨励会で戦ったこともある「羽生君」のことについて積極的に発言してくれている。
今も林葉直子の文章に接することができるのは喜びである。