ハリー(村越弘明)がインタビューで好きだと紹介していた田中一村の作品
〈アダンの海辺〉
田中一村(1908-1977)は、千葉市に20年住み、50代になって奄美大島に移住し亜熱帯の花鳥や風土を題材にした独特の日本画を描くも、生前それらの作品を公表する機会もなく無名のまま没したという。「日本のゴーギャン」との異名もあるとか。
もう少し調べてみたくなった。
以前、ハリーの歌詞のすごさについて書こうとして未遂に終わったことがあるが、本格的に書くにはちょっとまだ「くすぶってる何かが足りない」。
例えばTHE STREET SLIDERS 8作目のスタジオ・アルバム「Nasty Children」(1990年12月21日発売)に収録されている「PANORAMA」。
タフな掟の中で
あくせくと働いて
うつむいて歩きだす
泣きたい夜もあるさ
錆びついた合鍵で
ドアは開くのかい
窓のない部屋で
空は見えるかい
まばたきひとつで 街は夢
ため息ひとつ 街は雨
めぐりめぐって 街は夜
どこにでもあるのさ パノラマの街
デビューからほぼ1年に1枚の割合でコンスタントにアルバムを発表してきたスライダーズは、このアルバムの後、次作「WRECKAGE」(1995年4月21日発売)までじつに4年半のブランクを置くことになる。原因は、一言で言えばハリーがそれまでの活動に消耗し疲れ切ってしまったからだった。
ハリーのような人は、元来が束縛を嫌う自由人で、自分のペースで自然に自分の中から湧き上がる創造性に身を委ねて作品を生み出すタイプの人間である(芸術家とはたいていそういうものだろう)。
それがスライダーズでメジャーデビューして以来7年以上の間、彼にしてみればほとんど馬車馬のように猛烈に働くことを強いられてきた。コンスタントに曲を書き、ライブし、全国を回り、時には意に沿わないメディアの取材を受け、テレビにも出演し、会社からは「売れる曲」を書くようプレッシャーをかけられた。
蘭丸とズズを誘ってストリート・スライダーズを結成したのはハリーの意志であった以上、彼らのためにも活動を投げ出すことはできなかっただろうが、メジャーデビュー以降のハードワークはかなりの負担だったろうことは想像に難くない。その間の活動の濃密さを振り返ってみると、正直あのハリーが本当によくやったなあ、と感心してしまう。
ハリーが書く歌詞には最初から人生を達観するような一種の脱力感が溢れるものが目立っていたが、この「PANORAMA」に至ると、ほとんど離人症のような超脱ぶりを見せている。坂本慎太郎じゃないが、「幽霊の気分で」生きているような感じさえする。
さまざまな人々やら仕事やら喧騒に取り巻かれながらも、内面は「咳をしてもひとり」のような寂寥感の中にいるハリーの姿が浮かび上がってくるようだ。
錆びついた合鍵でドアは開くのかい
窓のない部屋で空は見えるかい
という問いかけは、あくせくと働いた後にうつむいて歩いているハリー自身に、それを上の方からじっと見つめている「もう一人のハリー」が声をかけているように聞こえる。
どうしようもない閉塞感と解放への希求という内面のあがきがじつにシンプルな言葉で見事に表現されている。
さらにすごいのは、
まばたきひとつで 街は夢
ため息ひとつ 街は雨
めぐりめぐって 街は夜
どこにでもあるのさ パノラマの街
と静かに畳みかけてくるフレーズだ。
なんだか藤圭子「女のブルース」の
ここは東京 ネオン街
ここは東京 なみだ街
ここは東京 なにもかも
ここは東京 嘘の街
という歌詞(石坂まさを)を連想してしまう。
でもハリーの方が非感傷的で、視点が高い。
「どこにでもあるのさ パノラマの街」という一言で、街全体とその中に住む人間たちの生活全体を俯瞰するような突き放した表現が素晴らしい。
ハリーの性質からして、すべてのしがらみを断ち切って奄美大島に移住し、自ら作った掘っ立て小屋のようなアトリエで孤独に画を描き続けた田中一村に憧れるものがあったのはよくわかる。「PANORAMA」は、それと真逆の生活を送って来たハリーが、疲れ切っていったんリタイアする直前に書かれた。
凄い曲だが、ハリーの歌詞の中ではまだ平均的なレベルだと思う。
詩人・村越弘明については、これから本格的な評価が待たれる。